加藤周一 日本庭院

加藤周一 日本庭院

修学院离宫的庭园无界线,龙安寺的庭院在画框中。

修学院離宮の庭には境がないが、龍安寺の庭は額縁の中にある。

在修学院,人虽然进入了自然,却未进入庭园之中。在龙安寺,人虽然看见了庭园,却未走入庭园。一方面是因为庭园并不是庭园,另一方面,庭园只不过是供人观赏的。被三面低矮的白壁围起来的画框中的自然,如同近代的舞台那样,第三面墙壁面向观众敞开着。由于庭园就是寺庙的宽走廊,是为了供人观赏,而且仅仅是为了供人观赏。在三面白壁之外,如同美术馆的壁面那样,与画框中的风景无关的套廊留着空间,而且那空间恰好不显眼。龙安寺的庭园四季各异:红叶林鲜艳夺目,却不是将周边围绕的秋天;而在冬日的下午,枯叶落尽的树林中,透过树梢的网眼,可以看见灰色的天空;仰或在春天的黄昏,翠绿的嫩芽让树林披上了新装。如果说修学院的自然是古代的、牧歌的、自我的自然,那么龙安寺的自然就像近代的风景画似的,是近代的、客观的、为我的自然吧。一方面,自然的东西与人类的东西无法加以区别,因此,在自然与人类的对立中的自然,恐怕并未被充分认识吧。庭园模仿了素朴的自然,可是并没有抓住其本质。另一方面,自然的东西与人类的东西被明显地区别开来,自然经常只是人类对自然的认识而已。庭园不能模仿自然,必须严厉拒绝自然主义素材的效果,根据纯粹的人类精神的方法,也就是说,那位工匠相阿弥即熟练又精通,将象征主义的方法运用自如,抓住了自然的本质。

修学院では、人と自然のなかに入るので、庭の中に入るのではない。龍安寺では、人は庭をみるので、庭の中に入るのではない。一方では庭は庭ではないし、他方では庭は見られるものにすぎない。低い白壁によって三方を囲まれた額縁の中の自然は、近代劇の舞台のように、第三の壁を観客に向かって開いている。庭は寺の広縁から、みられるためにあり、みられるためにのみある。三方の白壁の外には、美術館の壁面のように、額縁の中の風景とは縁もゆかりもない空間がある。その空間は目立たぬほうがよろしい。龍安寺の庭は、目の覚める葉の林が、周囲を取り巻くいている秋にではなく、枯れ落ちた林の、梢の網の目が、灰色の空を透かせている冬の午後に、あるいは、薄緑の若芽が林を包む春の夕暮れに眺めるのがよろしい。修学院の自然が、古代的、牧歌的な、an sichの自然であるとすれば、龍安寺の自然は、近代の風景画(ふうけいが)のように、近代的、客観(きゃっかん)的なfur sichの自然であろう。一方では、自然的なものと人間的なものとは区別されず、したがって、自然対人間の対立を通じての自然派、恐らく意識(いしき)されていない。庭は素朴(そぼく)に自然を模倣するが、その本質をとらえない。他方では、自然的なものと人間的なものとが明らかに区別され、自然は常に、人間に対するしぜんとして意識される。庭は自然を模倣せず、自然的な素材(そざい)の効果を厳しく拒絶(きょぜつ)そながら、純粋(じゅんすい)人間的な精神的な方法によって、すなわち、かの相阿弥が、熟達(じゅくたつ)し、精通(せいつう)し、自在に駆使した象徴(しょうちょう)主義(しゅぎ)的方法によって、自然の本質(ほんしつ)をとらえない。相阿弥は、どこで生活していたのか。少なくとも、石庭の中においてでなかったことは、決して宇宙(うちゅう)ではなかった。宇宙は、その中に人が身を置くところのものである。

是谁创造了那样的宇宙呢?就如回到了家中,可以走进那其中的庭园,从而将与自身融为一体的世界,与自然明显地区别开来,然而又不局限于此画框中。将人隐没其中,将房屋隐没其中,将一切隐没其中的庭园,不单单是供人观赏的,还可以在其中活动、生存、考虑问题的庭园,在精神上无可对照,拥有唯一宇宙的庭园,那样的庭园,是谁创造的呢?

誰がそのような宇宙を造ったか。家の中へ入るように、その中へ入ることのできる庭、それ自身境(さかい)のある世界であって、自然から明らかに区別され、しかし額縁の中に限られたものではなく、人を包み、家を包み、一切を包む庭、にみられるものでなく、その中で働き、生き、考えることのできる庭、精神にとってのある対照(たいしょう)ではなく、唯一の宇宙である庭、そのような庭を、だれが造ったか。

人们并不能看到桂离宫,只不过能走入其中。那里有竹编的藩篱,简朴的门。进入门中,通过小门走到上下桥处,在厚厚的绿苔之中,一直线的铺路石引人注目,两侧为行书体和草书体的稍有间隔的脚踏石,也包括了暗示茶人心情浮躁的哲学,然而又不能看见遮蔽了建筑物和树篱的庭院。进入书院之中,从月见台之上出来,才开始看到庭院,除此之外,人们还发现了一个世界之中存在的自己。在这个世界,没有镜框,也没有相当于挂着镜框的美术馆墙壁周围的的空间。被深邃的森林包围着,视野只限于森林之中,虽然森林向四处无限伸展,但这外面应该有的桂川啦,田地啦,人家啦,电线杆啦,只有向四处无限伸展的森林的尽头,也就是说,已经没有无限遥远的彼方存在了。这个世界,虽然有明显的境界,那个境界却在无限遥远的地方。因此,根据所看见的东西,所谓第三个障碍物,是不会有的。风景不是面向日式建筑的正面去敞开,日式建筑是在风景之中。人不是面对风景,而是就在风景之中,或者说,不是在自然之中,而是在第二自然之中,就好像存在于第二个人生的梦中。

人は桂離宮(かつらりみや)を、みることができない。そのなかにはいることができるだけである。竹で編んだ垣があり、簡素(かんそ)な門がある。門を入り、くぐり戸を通って御輿寄(みこしよせ)の前に出ても、緑の厚い苔の中に一直線の敷石が浮かび上がっているばかりで、左右いわゆる行(ぎょう).草(そう)の飛び石が、茶人(ちゃじん)の気まぐれな哲学(てつがく)を暗示してはいるけれども、建物と生垣に遮れて庭をみることはできない。書院の中に入り、月見台の上に出て、初めて庭をみる、というよりも、人は、突然、もう一つの世界の中にいる自分自身を見いだすのである。その世界には、額縁がない、額縁のまわりの美術館の壁面(へき)に相当する空間がない。深い森に囲まれ、視界は森に限られているが、森はどこまでも続いているのであり、その外(そと)にあったはずの桂川や、田畑や、人家や、電信柱は、どこまでも続いている森の果てにしか、すなわちもはや無限に遠いのである。したがってまた、みるものにとっての第三の壁というようなものは、有り得ない。風景は、書院の正面(しょうめん)に向かって開いているのではなく、書院が風景の中にある。人は風景に対しているのではなく、自然の中に、いや、自然のなかにではなく、第二の自然の中にいる。第二の人生である夢の中にいるように。

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