寺田寅彦 庭院的追忆

庭の追憶

庭院的追忆

寺田寅彦

翻译  王志镐

郷里の家を貸してあるT氏からはがきが来た。平生あまり文通をしていないこの人から珍しい書信なので、どんな用かと思って読んでみると、

郷里の画家の藤田という人が、筆者の旧宅すなわち現在T氏の住んでいる屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が他の一点とともに目下上野ので開催中の国展に出品されているはずだから、暇があったら一度見に行ったらどうか。

借家乡房子的T先生寄来了明信片。因为他平时不怎么写信的缘故,所以想读一读这封罕见书信,看看是什么事情。

信中说,老家画家藤田,在笔者的旧宅,即现在T先生所住房子的庭院写生红叶的油画,与其他一件作品一起,将在目前上野举行的国展上展出,您如有空的话去看一次如何?

という親切な知らせであった。さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。

这是一个善意的通知。赶紧出去看了,并不太难找,马上在第二室就见到了那幅画。当我明白就是这幅画的时候觉得有点不可思议,那就像是被几十年不见的少年时代的朋友吸引过去一样。

「秋庭」という題で相当な大幅たいふくである。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。

以“秋庭”为题,是一幅相当大的画。几乎遍幅都是红黄的色彩,让人眼花缭乱,头一眼还没有马上领会到,这就是自己曾经熟悉的庭院。但是,看着看着,首先看到的是画面中央下方的一块长方形的踏脚石。

この石は、もとどこかの石橋に使ってあったものを父が掘り出して来て、そうして、この位置にすえたものである。それは自分が物ごころついてから後のことであった。この石の中ほどにたしか少しくぼんだところがあって、それによく雨水や打ち水がたまって空の光を照り返していたような記憶がある。しかし、ことによるとそれは、この石の隣にある片麻岩の飛び石だったかもしれない。それほどにもう自分の記憶がうすれているのはわびしいことである。

这块石头是父亲从某座石桥上挖掘出来,安放在这个位置上。那是我已经懂事之后的事了。记忆中,这块石头中间确实有一点凹陷的地方,而且经常积满雨水和洒水,就像反射出天空的光一样。但是,据我所知,这块石头旁边可能就是这块片麻岩的踏脚石。我的记忆已经那么模糊了,这是件令人遗憾的事。

この絵でも、この長方形の飛び石の上に盆栽が一つと水盤が一つと並べておいてあるのがすっかり昔のままであるような気がするが、しかしこの盆栽も水盤も昔のものがそのまま残っているはずはない。それだのに不思議な錯覚でそれが二十年も昔と寸分ちがわないような気がするのである。

在这幅画中,我觉得在这块长方形的踏脚石上摆着一个盆景和一个水盆,好像完全是以前的样子,但这个盆景和水盆都不可能像以前的样子留下来。尽管如此,我还是有种不可思议的错觉,觉得它和二十多年前一点也不一样。

この飛び石のすぐわきに、もとは細長い楠くすの木が一本あった。それはどこかの山から取って来た熊笹(くまざさ)だか藪柑子(やぶこうじ)だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなってしまった。庭の平坦(へいたん)な部分のまん中にそれが旗ざおのように立っているのがどうも少し唐突なように思われたが、しかし植物をまるで動物と同じように思って愛護した父は、それを切ることはもちろん移植しようともしなかったのであった。しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。

紧挨着这块踏脚石旁边,原来有一棵细长的樟树。从哪里山上采来的山白竹,与紫金牛偶然紧贴在一起运过来,小小的嫩芽渐渐萌生,自然成长。一开始只有一二寸,变成了一二尺,变成了四五尺,后来终于比客厅的房檐还高了。虽然我觉得它像旗杆一样站在庭院的平坦部分正中有点唐突,但是把植物当成动物一样爱护它的父亲既没有将它砍掉也没有打算移植它。但是父亲死后全家搬到东京,开始把旧宅租给别人以后,不知什么时候这棵楝树就被砍了。因此,在这个“秋庭”的画面上当然看不到。但这使人感到有点欠缺,又使人感到遗憾。

次に目についたのは画面の右のはずれにある石燈籠(いしどうろう)である。夏の夕方には、きまって打ち水のあまりがこの石燈籠の笠かさに注ぎかけられた。石にさびをつけるためだという話であった。それからまた低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽かっぱを着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐(あおぎり)を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れてこの石燈籠を倒すのを恐れたからである。この梧桐(あおぎり)は画面の外にあるか、それとももうとうの昔になくなっているかもしれない。

接下来看到的是画面右边的石灯笼。夏天的傍晚,一定是洒了太多水,浇在了这个石灯笼的灯罩上,据说是为了给石头增添古雅趣味。然后又来了低气压天气,风要变大了,父亲就算是半夜也不在乎,穿着防雨斗篷和男仆两个一起,用细绳把这个石灯笼旁边的几棵大梧桐树绑在一起。那是因为怕树摇晃,把这个石灯笼撞倒。这棵梧桐树可能在画面外,或者已经不复存在了。

画面の左上のほうに枝の曲がりくねった闊葉樹(かつようじゅ)がある。この枝ぶりを見ていると古い記憶がはっきりとよみがえって来て、それが槲かしわの木だとわかる。ちょうど今ごろ五月の節句のかしわ餅(もち)をつくるのにこの葉を採って来てそうしてきれいに洗い上げたのを笊ざるにいっぱい入れ、それを一枚一枚取っては餅を包んだことをかなりリアルに思い出すことができる。餡入(あんいり)の餅のほかにいろいろの形をした素焼きの型に詰め込んだ米の粉のペーストをやはり槲の葉にのせて、それをふかしたのの上にくちなしを溶かした黄絵の具で染めたものである。

画面的左上角有树枝弯弯曲曲的阔叶树。一看这树的形状,以往的记忆清晰地浮现了出来,知道那是棵槲树。正好这个时候,为了做五月节的带馅年糕,我采了这树的叶子,然后把它洗得干干净净的放满笊篱,然后一张一张地把年糕包起来,我可以相当真实地回忆起来。除了带馅的年糕之外,还将塞进各种形状的素烧模具中的米粉糊放在槲树的叶子上,蘸上之后再用溶解了栀子花的黄色颜料染色。

正面の築山つきやまの頂上には自分の幼少のころは丹波栗(たんばぐり)の大木があったが、自分の生長するにつれて反比例にこの木は老衰し枯死して行った。この絵で見ると築山の植え込みではつつじだけ昔のがそのまま残っているらしい。しかし絵の主題になっている紅葉は自分にとってはむしろ非常に珍しいものである。

正面的假山山顶上,自己小时候有一棵丹波栗的大树,随着自己的长大,这棵树衰老枯死了。从这幅画来看,假山上栽植的只有杜鹃花了,似乎还保留着杜鹃花以前的样子。但是成为画的主题的红叶,对我来说反而是非常罕见的。

たぶん自分の中学時代、それもよほど後のほうかと思うころに、父が東京の友人に頼んで「大杯」という種類の楓かえでの苗木をたくさんに取り寄せ、それを邸内のあちこちに植えつけた。自分が高等学校入学とともに郷里を離れ、そうして夏休みに帰省して見るたびに、目立ってそれが大きくなっているのであった。しかし肝心のもみじ時にはいつでも国にいないので、ついぞ一度もその霜に飽きた盛りの色を見る機会はなかったのである。大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎(すさき)の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴てんてつしているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というものを見たことがなかったのである。それをかれこれ三十年後の今日思いもかけぬ東京の上野うえのの美術館の壁面にかかった額縁の中に見いだしたわけである。

大概在我的中学时代,我想那也是相当晚的时候,父亲拜托东京的朋友收集很多“大杯”类型的枫树苗,在宅邸内各处种下。每次我上高中的时候离开家乡,或者在暑假回家看看,都明显地长大了。但是关键的红叶茂盛时期我总是不在家,所以一次也没有机会看到那个饱经风霜的盛夏色彩。从大学二年级升到三年级的暑假探亲期间因病休学了一年,但在这期间因为一直在须崎海滨转地疗养,没能看到红叶盛开的景色。冬初偶然回家的时候,看到已经差不多凋谢了之后,微微散落下来蜷缩成暗红色的红叶,点缀着庭院的树木,还是觉得很美。一直以来,我一次也没见过自己院子里的红叶。在三十年后的今天,在意想不到的东京上野上的美术馆墙面上的画框中发现了它。

生まれる前に別れたわが子に三十年後にはじめてめぐり会った人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像はできないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちをいだいてこの絵の前に立ち尽くすのであった。

次男が生まれて四十日目に西洋へ留学に出かけ、二年半の後に帰省したときのことである。船が桟橋さんばしへ着いたら家族や親類がおおぜい迎えに来ていた。姉が見知らぬ子供をおぶっているから、これはだれかと聞いたらみんなが笑いだした。それが紛れもない自分の子供であったのである。それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町(はらまち)の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。

如果三十年后第一次见到出生前就分手了的我的孩子的话,会有什么样的感受呢?那是无法想象的,我抱着与此有多么相似的不可思议的心情,站在这幅画的前面。

那是次子出生第四十天去西方留学,两年半后回家探亲的时候发生的事。船到了码头,家里人和亲戚很多人都来接我。姐姐背着陌生的孩子,我问这是谁,大家都笑了起来,那当然是自己的孩子。听她们这样一说,与此同时,三年前婴儿的脸和东京原町的生活就像电光一样浮现在脑海里。

この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が次第次第に、狂っていたレンズの焦点の合ってくるように歴然と眼前に出現してくるのである。

现在我对这幅画的感觉还是有点像第一次看到的瞬间,无法识别的昔日我家的庭院,渐渐像疯狂的镜头对焦一样,历历在目。

このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇うちわで追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩かこうがんの飛び石であった。

尽管这里只有一面踏脚石,却可以放映出数不胜数的回忆,充满了喜怒哀乐。暑假期间,每晚坐在客厅走廊里,在那闷热而平静的夜晚,用团扇一边追打着来自草草的蚊子,一边与父母相对侃侃而谈。在那时,经常出现在眼前的旧书那块放在黄昏的庭院当中,看上去白花花的长方形的黄岗岩踏脚石。

ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿ゆかたすがたの、今はとくの昔になき妻の事どもである。

飛び石のそばに突兀とっこつとしてそびえた楠くすの木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。

在同样的走廊里默默坐着,我记得特别清楚的是,当时还年轻的穿着浴衣的,如今说起来已去世的妻子的故事。

踏脚石的旁边,毅然耸立的楠木树梢上带着雨的气息,一颗大大的星星好像总是挂在当空,这全都是像梦一样的记忆。这时候,与这样的记忆砍不断理还乱地纠缠在一起的,有我的父亲、母亲、妻子、女仆,男仆,他们在这个世界上一个也不剩了。

国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまごい)をした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野(うえの)の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像ナハビルトのようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。

こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下やましたのほうへおりて行くのであった。

(昭和九年六月、心境)

我粗略地环绕国展的会场走了一圈,回来后再次站在这幅“秋庭”的画前,向“对年轻时代的追忆”告辞了。出了会场,清爽的初夏的风仿佛穿过上野森林的嫩叶,将现在才开始这样生活的喜悦深深渗入人的心中。就像去年的嫩叶会使今年的嫩叶复活一样,一个人的过去永远会在那个人的回忆中复活。但是自己死了的话,自己的过去也会死去,同时全世界的嫩叶和红叶都不会再回来了。尽管如此,在还有一段时间存活下来的亲人们的回忆中,也许会像残留下来的可怜的残像一样闪烁。如果没有了让死去的自己复活在人内心回忆中的欲望,全世界的艺术可能将会消失一半以上,即使是我,也许也不会写让自己惭愧的随笔之类的。

一边想着这样的好事,一边信步向山下走去。

(昭和九年六月,心境)

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