活字中毒者的一天

山口瞳

作者介绍: 1925年生于京都,毕业于国学院大学文学部日本文学科。著有《小说. 吉野秀雄先生》、《我的町》、《杀人》、《男性自身》、《家族》、《居酒屋兆治》等。1989年10月借花甲之机宣告隐居。


翻译  王志镐


朝、といっても、私の朝は午前十時ごろになるのであるが、寝床から出てきて、玄関とも応接室ともつかぬ一室へ降りてゆく。その部屋のテーフルの上に新聞がおいてある。


早上,说起来也不太早,我的早上是在午前十点左右,从床上起来后,下楼来到一间说不上是玄关还是接待室的房间。这房间的桌子上放着报纸。


私は、顔の洗わず、寝間着のまあで、その新聞を読み始めることになる。すなわち、目がさめて、いきなり活字接することになる。そこへ野菜ジュースが運ばれてくる。ついで、熱いお茶がくる。私は新聞を読み続けている。十一時ごろ、朝食のために食室へ行く。朝食は、コーヒー、バンまたはホットケーキ、生野菜、卵というあたりであるが、そこでも新聞をよんでいる。便所でも読む。

あらう:洗わず、洗っていない皿、目が醒める、はこぶ:運ばれてくる、ついで:接着

あついお茶、せいやさい、タマゴ、あたり:之类


我穿着睡衣,脸也不洗就开始阅读那些报纸。也就是说,从早上一睁开眼就开始接触铅字。有人将蔬菜汤端来,接着又送来热茶。我则继续读报。十一点左右,我去饭厅用早餐。无非就是些咖啡、面包,或者烤饼、生的蔬菜、鸡蛋之类。不过即使用餐时也仍在读报,上厕所也在读。


飲み残しのコーヒーを持って、玄関兼応接室へ戻ってくる。なおも、新聞を読む。人が来ても、寝間着のままで応対する。

けん、兼ねる、もどる、尚も:还,仍,继续,ねまき、おうたい、


端着喝剩下的咖啡,我回到玄关兼接待室继续读报,即便来了客人,也是身着睡衣接待。


新聞を読み終えるのが十二時ごろになる。十二時になると、NHKのにユースを見る。

おえる、

读完报纸,已是十二点左右,到了十二点,便要看NHK的新闻节目。


新聞は、朝日、毎日、読売、東京、報知、スポニチの六紙である。それにしても、こんなに時間がかかるのは、将棋欄があるからである。六紙とも、将棋欄がある。昔、将棋は夕刊に掲載されていた。それが、日曜夕刊が廃止になったときに、続きものとしての意味をなさないということで、朝刊に移行された。永井龍男さんは、それを、大愚挙のひとつに数えておられる。将棋欄は、晩酌をやりながら読むものだと言われるのであるが、私も、まったく同感である。これは大いなる迷惑である。


しょうぎらん、けいさい、はいし、だいぐきょ、ばんしゃく、おおいなる、しょさい、

迷う:まよう、めいわく、魅惑、みわく、どうかん、


所订的报纸有朝日新闻、每日新闻、读卖新闻、东京新闻、报知新闻、体育报六种,虽说如此,之所以花费大量时间去看报,是因为有象棋栏目的缘故,而所订的六种报纸都有象棋栏目。以前,象棋栏目刊登在晚报上,可是一旦星期日晚报停刊,就没有了连续性,所以才转移到日报上。永井龙男先生将此列为一大蠢招。他说象棋栏目应该是在晚餐时边饮酒边看的。我也有同感,真是令人为难。


さて、新聞を読み終わり、テレビのにユースも見た。さあ、仕事だということになるはずであるが、そうはならない。

读完报,然后又看电视新闻。那么该工作了吧,其实并非如此。


十時半か十一時ごろ、郵便物がくる。そのうち、手紙は、新聞を読むのを中止して、ただちに読む。返事の必要なものは、書斎の上の未決の箱にいれる。郵便物の主なるものは、週刊誌、雑誌、新刊の書籍である。

中止:ちゅうし、未決:みけつ、返事:へんじ、


十点半到十一点左右,邮件就到了。这时我中止读报,立即看信。需要回信的,放在书房里的待处理箱里。邮件主要是周刊、以及新出版的书籍。


私のところへ送られてくる週刊誌は、およそ、十五、六種類になろうか。雑誌は、三十種類を越すだろう。そのはかに、PR雑誌がある。こういう小冊子で、面白いものが、たくさん出ている。また、将棋だけで、五種類ある。これは、例によって、時間をくう。送られてくる新刊の書類は、一ヵ月に三十冊から四十冊という見当だろうか。これで、困ったことになる。私は、玄関兼応接室のソファーに横になって、週刊誌を読み始める。困ったことになると書いたが、私は、一方で、舌なめずりしているのである。これは活字の中毒、もしくは、一種の病気ではあるまいか。週刊誌病といったような……。その証拠に、稀に、週刊誌も雑誌も送られてこないという日があると、淋しくっていけない。また、週刊誌の編集部は、各誌それぞれ、実によく健闘しているのである。その健闘ぶりに敬意を表するために、ちょっとは目を通さないといけない。ちょっとと思っているうちに、面白いので、引きずり込まれてしまう。

越える、横になる、舌舐めずりし食べる、ちゅうどく、しょうこ、けんとう、けいい、

引きずり込む:拖进,拽进


送来我处的周刊大概有十五、六种吧,杂志则要超过三十种。除此之外,还有广告杂志,这种小册子里有很多有趣的东西,光是象棋类就有五种。读完这些照例要花费很多时间。送来的新出版的书籍一个月里也有三十到四十册左右吧,这也让我困惑。我躺在玄关兼接待室的沙上开始读周刊。虽然我说这令人困惑,但另一方面却享受地舔着嘴唇。这也许就是铅字中毒,或者是一种病态吧。也可以称为读周刊上瘾病之类的…….。其证据为,偶尔不送周刊或杂志来的日子,我便寂寞无比。同时,各种周刊的编辑部、每本杂志也确实拼了,为了对其奋斗精神表示敬意,也必须过目一遍吧。这么一想,有趣的是,就被吸引过去了。


内田百間先生は新聞を読まなかった。読まないで、部屋に積んでおく。先生は六畳三間の家に住んでいたが、そのうちの一間が、新聞でいっぱいになってしまった。新聞に占領され、追い出される形になった。ある人が、新聞なんかすててしまいなさいと言った。すると、百間先生は、いつかは読むつもりだから処分しないと答えたという。その気持ちは、私にもよくわかる。これは、編集局の健闘ぶり、もしくは、およそ、物を作る人たち、あるいは、活字一般に敬意を表するということではあるまいか。


内田百闲先生并不读报,而是将其存放在房间里。他居住在一间相当于六榻榻米三居室屋子里,其中朝里的一间放满了报纸,貌似被报纸占据而被驱逐出去的态势。有人说,把报纸扔出去算了,可是百闲先生却回答说:什么时候我还要看呢,不能扔。他的这种心情我很理解。这是对编辑部的奋斗精神,或者是对制作报纸的人,也许还是对一般从事活字工作的人所表示的一种敬意。


ソファーによりかかり、寝そべり、ときどき、向きをかえながら、週刊誌や雑誌を読む。これだけならいい。テーブルのうえにリモート.コントロールの機械が置いてあって、ボタン一つで、各局のテレビ番組も見る。野球、相撲は、よほどのことがないかぎり、見てしまう。その他のスポーツの番組も見る。将棋も見る。美術関係のものも見る。音楽番組も、いいものは見る。時には、主婦むけの番組も見る。あれは、週刊誌.雑誌の類を読みながらみるということになっ。年齢や病気(糖尿病)のことを別にして、私の目は急速に衰えた。(東京12チャンネルの将棋番組は午前一時半からの放映である。)


斜靠在沙发上,或者躺在那里,我不时变换着方向读着周刊或杂志。只是这样就算了,桌子上放着遥控器,只要按一下一个电钮,就可以收看各个电视台节目。只要没有什么特别的事情,棒球和相扑是是一定要看的。其他体育节目也不放过,象棋要看,美术节目要看,音乐节目中好的也要看,有时候还看妇女节目。这些都是一边读周刊、杂志类的书一边看。除开年龄和疾病(糖尿病)的因素,我的眼睛视力急速下降。(东京十二频道的象棋节目晒每天凌晨一点半开始播出。)


そうやって、午後四時になると、郵便受けがコツンと鳴るのである。ああ厭だなあと思う。やれやれと思う。なんともいえずうっ陶しくなる。コツンと鳴ったのは、夕刊が配達された音である。夕刊を読み、夕食を食べ、昼間と同じ状態が、ずっと続く。小便に行く時でさえ、何かを持ってゆく。私の就寝は、午後二時から三時の間ということになるが、眠りにいたる寸前まで何かを読んでいる。


就这样,到了下午四点,信箱就会砰的一声响了起来。我就会想,哎呀呀,真讨厌,并陷入一种不知说设么才好的郁闷状态。发出砰的一声是晚报送来的声音,接着读晚报,吃完饭,陷入与白天同样的状态,始终在持续读报。即使去小便时也要手里拿张什么报纸。我的就寝时间为午夜两点到三点之间,哪怕到临睡之前也要读些什么。


これだけではない。私の家では、朝から夜中まで、七組十人とか、五組八人という客が来るのが少しも珍しくはないのである。近くに住む人は、前ぶれなしにふらっとあらわれる。東京駅から電車とタクシーで一時間半というところに住んでいるのだから、遠くから来た人にすぐに帰ってもらうというわけにはいかない。たいていは酒になり、時には、それがお祭り騒ぎになってしまう。


不仅如此,我家从早到晚来客,七伙十个人,五伙八个人,一点儿也不稀奇。家住附近的人,事先也不打个招呼就突然出现了。我住在离东京车站乘电车或出租车需要一个半小时的地方,所以从大老远来的人也不好马上打发走。大体上总要喝上几杯酒,有时候还会热闹得像做祭祀似的。


これでも、私は麻雀をやめ、競馬をやめ、将棋の実戦からは遠ざかり、少しは良くなってきたと思っているのである。(それで時間を節約できるだけでなく、その方面からの取材を逃れることができる。)


尽管如此,我已经在打麻将和赛马上收手,也远离象棋实战,自己觉得比从前好多了。(不但可以节约时间,还可以逃避各方面的采访。)


私は、朝起きてから、夜の眠りにいたるまで、何かを読んでいないときはない。私の目が活字から離れることがない。ただし、来客中は別である。また、客が多いから、読むべきものが読めずに溜まってしまうということにもなる。


我从早上起床到晚上睡觉,无时无刻不在读些什么。我的眼睛从不离开铅字。不过,来客人时例外,而且,有时候客人来得太多,应该读的东西没读,积攒下来。


朝から深夜まで、私の目は活字から離れない。しからば、私は読書家であろうか。否である。断じて読書家ではない。


从早到晚,我的眼不离字,那么,我是一个读书人吗?不是,我绝不是一个读书人。


むろん、読書とは、こういうものではない。読書とは、一般に固いものを読む、古典を読む、研究書を読む、専門書を読む、あるいは、小説でも、一人の作家をまとめて読むということになろうか。私における活字は、ここからは、ほど遠い。勉強からも仕事からも遠くなる。


不用说,读书并不是像我这样。读书一般指读难度的书、读古书、读研究专著、读专业书籍。或者说,即使读小说,也要系统地读一个作家的作品吧。我所接触的铅字却与此不搭嘎,与学习工作都不沾边。


有吉佐和子さんは、一日に八時間読書すると言われたことがある。残りの八時間ずつが仕事と睡眠である。それを続けてこられた。いまは、この読書の八時間のなかに体操と水泳が入ってきたいるようだ。


据说,有吉佐和子一天要读八小时的书,剩下的八小时为工作与睡眠,而且一直持续至今。目前,这读书的八小时里,又加入了体操和游泳。


井上久志さんは読書家として有名であり、古本屋に支払う金額が一ヵ月に二百万円になるという話を聞いた。五木寛之さんは、読むのが早くれ、一日に四冊か五冊の本を読むという。五木さんは風呂のなかでも読むというが、私はそれは出来ない。野坂昭如さんは雑誌の読書欄を受けもっていて(新刊指折紙といったかな)、その読書の範囲が多岐に渡っていることは驚くほかはない。


井上久志先生是一位著名的读书人,据说他一个月花在旧书店的钱达到二百万日元。五木宽之先生读起书来速度飞快,一天可以读四到五本,据说他泡澡堂子时也读书,这一点我望而却步。野坂昭如先生负责编辑杂志的读书栏目(可谓新刊中屈指可数的吧),其读书范围涉及之广令人咂舌。


恥ずかしいとか、かえりみて忸怩たる思いがあるというあたりを通り越して、私は、絶望的になり、なんという情ない男であるか、なんというムダな生き方をしていることかという思うに責めさいなまれる。私だって、決して読書は嫌いではないのである。


惭愧的是,回首往事总是感到羞愧不已的想法,使我感到绝望,并总是自责:我是个多么无情的男人啊,过的是一种多么徒劳的生活啊!不过我也绝不是讨厌读书。


どうしてこうなったのかということを考える。それは、私について都合のいいことだけで言うと、つまり、ナマクモノであるとか、遊び好き酒好きという軟弱な部分を除外すると、こうなってくる。


我在思考:为什么会变成这样的呢?关于我的情况,从好里说,也就是除去懒惰啦,好玩啦、好喝酒啦之类的软档之外,可归纳为以下几条:


第一に、新聞、週刊誌、雑誌の類の数が多過ぎるのである。新聞は二紙あればいい。できれば東京中心の地方紙がもう一紙。総合雑誌が一誌。文芸雑誌が二誌。中間雑誌が二誌。週刊誌は、新聞社系と出版社系と一誌ずつ。こうなったら、世の中が、ずいぶんスッキリするだろうと思うし、私の勉強する時間が出来てくる。媒体が減ることは自分の首をしめるようなものだと思われるかもしれないが、決してそんなことはない。いまの時代を文運隆盛だと思う人はいないと思う。ただただ媒体が多いだけである。早い話が、日本のテレビ局の数と、イギリスやフランスのそれとを比べてみるといい。こっちは数が多いだけのことである。


第一,报纸、周刊、杂志的种类过多,报纸只需两种就行。如有可能再订一份以东京为中心的地方报纸就行。综合性杂志一份,文艺杂志两份,中间杂志两份。周刊嘛,报社系统的和出版社系统的各一份。这样的话,不但社会上的事情就会很清楚,而且我的学习时间也有了。也许有人会说:消减媒体简直是在掐自己的脖子,绝不会有这样的事。我认为当今并不是文运隆盛的时代,只是媒体过多罢了。直截了当地说,只要将日本的电视台和英国或法国的电视台比较一下就可以了。日本的只是数量多一点罢了。


そういうことだから、私は、やむをえず、仕事のためホテルにこもることがある。ホテルにいれば、郵便物は来ないし、電話もかからないし、客も来ないし。昼間の仕事をお終わえ、ロビーへ降りていって、売店で夕刊を一紙だけ買う。その時の一紙だけの夕刊の活字は、まことに新鮮で、書かれたものが頭に染み込んでゆくように思われる。俺も捨てたもんじゃないと思うことがある。本来はこうあるべきだと思い、家での生活wp思うと、実際、腹が立つ。この状態なら、古典が読めるはずである。


そういうことだから、私は、やむをえず、仕事のためホテルにこもることがある。ホテルにいれば、郵便物はて来ないし、電話もかからないし、客も来ない。昼間の仕事を終え、ロビーへ降りていって、売店で夕刊を一紙だけ買う。その時の一紙だけの夕刊の活字は、まことに新鮮で、書かれたものが頭に染み込んでゆくように思われる。俺も捨てたもんじゃないと思うことがある。本来はこうあるべきだと思い、家での生活を思うと、実際、腹が立つ。この状態ばら、古典が読めるはずである。


正因为如此,我为了工作不能不躲进宾馆里。因为待在宾馆里,既没有邮件,也没有电话,更没有客人来访。白天工作完后,下楼到前厅小卖部买一张报纸。这时候仅仅一份晚报的铅字,令人觉得新鲜无比,报上写的字句就像印进了脑子里似的。这是我想,俺也不是个扔的货呀。想到我的生活本来就应该是这个样子,以及在家时的生活时,实在很生气。如果一直是这个状态,应该读一点古文了。


第二に、これは小説だけにかぎって言うのであるけれど、面白しい小説が少なってきたのがいけない。


第二,这仅限于小说而言,但有趣的小说少了也不行。


昭和三十年代には、たとえば、小島信夫、吉行淳之介、安岡章太郎、といった人たちが、次々に雑誌に面白い小説を書き、それが書物になり、私は欠かさずに読んだものである。それらの小説は、面白かったし、充分に刺激的であったし、まず第一に、読みやすかった。

開高健も大江健三郎も面白かった。



昭和三十年代期间,比方说,像小岛信夫、吉行淳之介、安冈章太郎这些人,纷纷在杂志上发表有趣的小说,然后又印成书籍,我是一本不拉地都读过的。这些小说,既有趣又十分刺激,首先是容易读,不过开高键和大江键三郎的小说也很有趣。


昭和二十年代では、私の母でも、文芸雑誌を読んでいた。それは、谷崎潤一郎、川端康成、船橋聖一といったような人たちが小説を発表していたからである。そういう小説は、面白かったし、一種の香りがあったし、母にも読める小説であったし、なによりも大人の小説であった。


昭和二十年代,我母亲也在读文艺杂志。那都是些谷崎润一郎、川瑞康成、舟桥圣一等作家发表的小说。这些小说既有趣,又具有一种香气,它们既是我母亲能读懂的小说,也是成年人的小说。


私の愛読書が文芸雑誌だと言ったら、これもおかしな話になるかもしれないが、少しくと、も、この世界に生きるものとして、こういう赤字雑誌、、おしくは修業の場を大事にしたいという考えは失っていない。


如果说我爱读的书是文艺杂志的话,也许会成为笑话,不过至少说明作为一个活在这个世界上的人,我仍然未丢弃珍惜这种“入不敷出杂志”或者说是学习场所为重的想法。

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