寺田寅彦 乌瓜花与蛾

烏瓜の花と蛾

翻译  王志镐

(乌瓜,又名王瓜,瓜科爬藤类多年生草本植物。生长在山野,夏夜开白色的花,秋天结红色圆形卵籽。蛾,属鳞目类,是蝶以外的昆虫。有覆盖着鳞粉的翅膀,休憩时翅膀多呈水平展开状。幼虫为毛虫,芋虫等。主要在夜间活动。——译者注)

今年は庭の烏瓜がずいぶん勢いよく繁殖した。中庭の四ツ目垣の薔薇にからみ、それから更に蔓を延ばして手近なさんごの樹を侵略し、いつの間にかとうとう樹冠の全部を占領した。それでも飽き足らずに今度は垣の反対側の楓樹までも触手をのばしてわたりを付けた。そうしてその蔓の端は茂った楓の大小の枝の間から糸のように長く垂れさがって、もう少しでその下の紅蜀葵の頭に届きそうである。この驚くべき征服慾は直径わずかに二、三ミリメートルくらいの細い茎を通じてどこまでもと空中に流れ出すのである。

今年我家庭院的乌瓜繁殖势头强劲。它们缠绕着内院方格篱笆上的蔷薇,再从这里伸出藤蔓,侵略到近旁的珊瑚树,不知不觉中渐渐占领了整个树冠。尽管如此它们还不满足,这次将触手伸到了篱笆对面的枫树那里,与其挂上了钩。这样一来,它们的藤蔓穿梭在茂盛的枫树的大小树枝之间,像线一样长长地垂吊着,几乎要碰到下面红蜀葵的顶部了。其征服欲望使人惊讶,通过直径只有二,三毫米左右的细茎,开始向空中到处伸展开来。

毎日夥しい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんな莟つぼんでいる。それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精の握り拳とでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放していてやや薄暗くなりかけた頃に見ると、もうすべての花は一遍に開き切っているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度に灯ると同じように、この植物のどこかに不思議なスウィッチがあって、それが光の加減で自働的に作用して一度に花を開かせるのではないかと思われるようである。ある日の暮方、時計を手にして花の咲くのを待っていた。縁側で新聞が読めるか読めないかというくらいの明るさの時刻が開花時で、開き始めから開き終りまでの時間の長さは五分と十分の間にある。つまり、十分前には一つも開いていなかったのが十分後にはことごとく満開しているのである。実に驚くべき現象である。

每天都有许许多多的花开了又落了。这种花白天全都含苞待放,可是很小,可爱极了,如果说它是夏夜的妖精握着的拳头,那是太合适了。傍晚太阳落山后,空中的光线还很强,此时,它牢牢握紧拳头,如果稍稍放眼望去,在即将变暗的时候,所有的花朵一齐开放了。就像打开开关,数十盏灯一齐同时放光。我寻思,这种植物是在哪里装了不可思议的开关,会根据光线的明暗自动发生作用,使花朵一齐开放?有一天傍晚,我手持钟表,等待着花朵的开放。在屋子的外廊,亮度为看得见、又似乎看不见报纸上的字的时候,那正是花开的时刻。从开始开花到花开完,时间长短为五到十分钟之间。也就是说,十分钟之前,一朵花也未开;十分钟后,花儿悉数盛开了。这实在是令人惊讶的现象。

烏瓜の花は「花の骸骨」とでも云った感じのするものである。遠くから見ると吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。手に取って見ると、白く柔らかく、少しの粘りと臭気のある繊維が、五葉の星形の弁の縁辺から放射し分岐して細かい網のように拡がっている。莟んでいるのを無理に指先でほごして開かせようとしても、この白い繊維は縮れ毛のように捲き縮んでいてなかなか思うようには延ばされない。強いて延ばそうとすると千切れがちである。それが、空の光の照明度がある限界値に達すると、多分細胞組織内の水圧の高くなるためであろう、螺旋状の縮みが伸びて、するすると一度にほごれ拡がるものと見える。それで烏瓜の花は、云わば一種の光度計のようなものである。人間が光度計を発明するよりもおそらく何万年前からこんなものが天然にあったのである。

据说乌瓜花有“花之骸骨”之称,为此感叹不已。从远处看,就好像吉野纸似的,又好像一抹烟似的。拿在手里一看,雪白柔软,带有少许粘液和香味的纤维,五叶星形的花瓣边缘,放射着分歧的细细的网状物,向四周扩散开来。如果用手指把含苞欲放的花蕾强行剥开,雪白的纤维卷毛似的蜷缩起来,又像在思考似的,不肯轻易绽开。如果强行将它展开,就弄碎了。这是因为,一旦达到了空中光线照明度的极限值,大多数细胞组织的水压就变高吧,将螺旋状紧缩物伸长,就看见了一齐绽开的花朵。乌瓜花据说有一种光度计之类的东西,比人类发明光度计也许要早好几万年,而这种东西都是天然的。

烏瓜の花が大方開き切ってしまう頃になると、どこからともなく、ほとんど一斉に沢山の蛾が飛んで来てこの花をせせって歩く。無線電話で召集でもされたかと思うように一時にあちらからもこちらからも飛んで来るのである。これもおそらく蛾が一種の光度計を所有しているためであろうが、それにしても何町何番地のどの家のどの部分に烏瓜の花が咲いているということを、前からちゃんと承知しており、またそこまでの通路をあらかじめすっかり研究しておいたかのように真一文字に飛んで来るのである。

当乌瓜花气度非凡地开放时,从四面八方大量的蛾子几乎一齐飞来,在花上走走啄啄。我想它们好像是用无线电话召集来的,顷刻之间,从这里那里都飞了过来。这也许是因为蛾子有一种光度计的缘故吧,以至于它们好像事先准确了解到在哪条街,哪个地方,哪一家,哪个部位的乌瓜花正在开放着,还好像把到这里来的道路预先仔细研究过了,一直线地飞了过来。

初めて私の住居を尋ねて来る人は、たとえ真昼間でも、交番やら店屋などを聞き聞き何度もまごついて後にやっと尋ねあてるくらいなものである。

起初,来寻找我家的人,哪怕是在大白天,要在派出所,店铺等地方问了又问,经历了几次不知所措之后,才好不容易找对了地方。

この蛾は、戸外がすっかり暗くなって後は座敷の電燈を狙いに来る。大きな烏瓜か夕顔の花とでも思うのかもしれない。たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでも一向会釈なしにいきなり飛込んで来て直ちに忙わしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接待のために出してある茶や菓子の上に箔の雪を降らせる。主客総立ちになって奇妙な手付をして手に手に団扇を振廻わしてみてもなかなかこれが打落されない。テニスの上手な来客でもこの羽根の生えたボールでは少し見当が違うらしい。婦人の中には特にこの蛾をいやがりこわがる人が多いようである。今から三十五年の昔のことであるが或る田舎の退役軍人の家で大事の一人息子に才色兼備の嫁を貰った。ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群が時々この芳紀二八の花嫁をからかいに来る、その度たびに花嫁がたまぎるような悲鳴を上げてこわがるので、息子思いの父親はその次の年から断然夕顔の裁培を中止したという実例があるくらいである。この花嫁は実際夕顔の花のような感じのする女であったが、それからわずか数年の後亡くなった。この花嫁の花婿であったところの老学者の記憶には夕顔の花と蛾とにまつわる美しくも悲しい夢幻の世界が残っている。そう云って彼は私に囁くのである。私には彼女がむしろ烏瓜の花のように果敢はかない存在であったように思われるのである。

而这蛾子在屋外完全变黑之后就来袭击客厅的电灯,也许它们以为那是晚霞中的乌瓜花吧。偶尔接待来访的客人,在说知心话的过程中,它们丝毫不留情面,不管三七二十一,冷不防地飞来,并马上开始忙着作盘旋运动,甚至不时撞在来客的头上脸上,像雪片一样落在特意拿出来招待客人的茶和点心上。宾客只好一齐起立,以奇妙的手法,一手一把团扇挥舞起来,却不能将它们轻易打落。连擅长于打网球的客人,似乎也稍稍将这个生翅膀的球打偏。在女人当中,对蛾讨厌害怕的似乎也很多。这是距今三十五年以前的事了,在某位农村的退役军人家里发生了一件大事,他的一个儿子要嫁给一位才貌具全的新娘。他们家的庭院里盛开着值得夸耀的月光花(又名天茄花),前来叼啄的蛾群,不时飞来戏弄年方二八的新娘,这时候,新娘被吓得魂不守舍,害怕地大声惊叫起来。因此,就有了这样的实际例子:从第二年起,思念儿子的父亲中止了月光花的栽培。这位新娘实际上是像月光花那样伤感的女子,仅仅几年之后,就亡故了。在新娘的新郎那里的一位老学者的记忆中,一直残留着与月光花和蛾子缠绕在一起的美丽而悲壮的梦幻世界。他对着我的耳朵这样轻轻说,我想,那位女子不用说就像这乌瓜花一样虚幻地存在着。

大きな蛾の複眼に或る適当な角度で光を当てて見ると気味の悪いように赤い、燐光に類した光を発するのがある。何となく物凄い感じのするものである。昔西洋の雑誌小説で蛾のお化けの出るのを読んだことがあるが、この眼玉の光には実際多少の妖怪味と云ったようなものを帯びている。つまり、何となく非現実的な色と光があるのである。これは多分複眼の多数のレンズの作用で丁度光り苔の場合と同じような反射をするせいと思われる。

见到了大蛾子的复眼在适当角度对准了光,常常令人不快,容易发火。它发出类似磷光的光线,不由得使人有一种凄凉的感觉。过去在西洋的杂志小说里,读到过关于蛾子孵化出来的故事,这个眼球中的光线确实多少带有妖魔鬼怪的味道。也就是说,总觉得里面有非现实的色彩和光线。我想,这是在多重复眼的多重焦点作用下,与在光合作用的场合下同样的反射作用的缘故。

蛾の襲撃で困った時には宅の猫を連れて来ると、すぐに始末が着く。二匹居るうちの黄色い方の痩せっぽちの男猫が、他には何の能もない代りに蛾をつかまえることだけに妙を得ている。飛上がったと思うと、もう一遍にはたき落す。それから散々玩具にした揚句に、空腹だとむしゃむしゃと喰ってしまうのである。猫の神経の働きの速さと狙いの正確さには吾々人間は到底叶かなわない。猫が見たら人間のテニスやベースボールは定めて間だるっこくて滑稽なものだろうという気がするのである。それで、仮りに猫の十分の一秒が人間の一秒に相当すると、猫の寿命が八年ならば人間にとっては八十年に相当する勘定になる。どちらが長生きだかちょっと判らない。

在为蛾子袭击所困扰时,将家里的猫带来了,马上有了结果。两只住家的黄色雄猫,瘦骨嶙峋的,它们没啥本事,只是在捕捉蛾子上独有妙计。正寻思它们要跳起来,却一下子已经将蛾子扑了下来,然后狠狠地将它们当作玩具来耍,最后,空腹吧叽吧叽地将它们都吃了。猫的神经灵活,动作迅速,狙击准确,我们人类到底做不到。看了猫的动作,觉得人类在网球和垒球中的规定动作真是磨磨蹭蹭,滑稽透顶。因此,猫的十分之一秒相当于人类的一秒,据测定,猫的寿命是八年的话,相当于人类的八十年。谁更长寿,还真不好判断。

これは書物で読んだことだが、樫鳥や山鳩や山鴫のような鳥類が目にも止まらぬような急速度で錯雑した樹枝の間を縫うて飛んで行くのに、決して一枚の木の葉にも翼を触れるような事はない。これは鳥の眼の調節の速さと、その視覚に応じて反射的に行われる羽翼の筋肉の機制の敏活を物語るものである。もし吾々人間にこの半分の能力があれば、銀座の四つ角で自動車電車の行き違う間を、巡査やシグナルの助けを借りずとも自由自在に通過することが出来るにちがいない。しかし人間にはシグナルがあり法律があり道徳があるために鳥獣の敏活さがなくても安心して生きて行かれる。そのために吾々はだんだんに鈍になり気永くなってしまったのであろう。

这是从书上看到的,鲣鸟啦,山鸠啦,山鴫啦之类的鸟类,以人难以察觉的神速在错综的树枝的缝隙间穿梭飞行,而它们的翅膀绝不会触到一片叶子。这表明鸟的眼睛的调节速度,与它们视觉对应的反射行动是由翅膀肌肉机制的敏捷决定的。如果我们人类有这一半的能力,那么我们在银座的十字路口的汽车和电车的穿行中走错路的时候,也不用借助警察和信号灯的帮助,就一定能够自由自在地通过了。然而,人类虽然没有鸟类的敏捷,却有信号灯,有法律,有道德,因此可以安心生存。正因为这样,我们渐渐地变得愚钝,意气用事。

しかし鳥獣を羨んだ原始人の三つ子の心はいつまでも生き延びて現代の文明人の社会にも活動している。蛾をはたき落す猫を羨み讃歎する心がベースボールのホームランヒットに喝采を送る。一片の麩を争う池の鯉の跳躍への憧憬がラグビー戦の観客を吸い寄せる原動力となるであろう。オリンピック競技では馬や羚羊や魚の妙技に肉薄しようという世界中の人間の努力の成果が展開されているのであろう。

不过,羡慕鸟类的原始人的幼儿的心愿,一直以来还在幸存下来的现代文明人的社会中活动着。对将蛾子扑打下来的猫的羡慕赞叹之心,就是对将垒球送入本垒的喝彩。憧憬争夺一片面包的池鱼的跳跃,成了招引橄榄球大战的观众的原动力。在奥林匹克竞技中,马、羚羊和鱼的妙技在像是肉搏的世界中,正是人类的努力成果的展开。

機械的文明の発達は人間のこうした慾望の焔にガソリン油を注いだ。そのガソリンは、モーターに超高速度を与えて、自動車を走らせ、飛行機を飛ばせる。太平の夢はこれらのエンジンの騒音に攪乱されてしまったのである。

机械文明的发达,就是朝人类欲望的火焰中添加汽油。这个汽油给予马达超高速度,让汽车行驶,飞机飞翔,而太平梦被这样的引擎的噪音所搅乱。

交通規則や国際間の盟約が履行されている間はまだまだ安心であろうが、そういうものが頼みにならない日がいつ何時来るかもしれない。その日が来るとこれらの機械的鳥獣の自由な活動が始まるであろう。

交通规则以及国际间的盟约的履行期间,尚能使人安心把,可是对这样的盟约不能依赖的日子,也许不知什么时候又会到来。那一天到来的话,这些机械鸟兽的自由活动便开始了。

「太平洋爆撃隊」という映画が大変な人気を呼んだ。映画というものは、なんでも、吾々がしたくてたまらないが実際はなかなか容易に出来ないと思うような事をやって見せれば大衆の喝采を博するのだそうである。なるほどこの映画にもそういうところがある。一番面白いのは、三艘の大飛行船が船首を並べて断雲の間を飛行している、その上空に追い迫った一隊の爆撃機が急速なダイヴィングで礫のごとく落下して来て、飛行船の横腹と横腹との間の狭い空間を電光のごとくかすめては滝壷の燕のごとく舞上がる光景である。それがただ一艘ならばまだしも、数え切れぬほど沢山の飛行機が、あとからもあとからも飛び来り飛び去るのである。この光景の映写の間にこれと相錯綜して、それらの爆撃機自身に固定されたカメラから撮影された四辺の目まぐるしい光景が映出されるのである。この映画によって吾々の祖先が数万年の間羨みつづけに羨んで来た望みが遂げられたのである。吾々は、この映画を見ることによって、吾々自身が森の樹間をかける山鳩や樫鳥になってしまうのである。

《太平洋轰炸队》这部电影很受欢迎。 据说电影什么的,只要做我们想做的事,实际上却觉得很难做好的事给大家看,就会博得大众的喝彩。 原来如此,这部电影也有那样的地方。 最有意思的是,三艘大飞船排列船头在断云之间飞行,一队被逼到高空的轰炸机在急速的潜水中如同砾石一般落下,在飞艇侧腹和侧腹之间的狭小空间如同电光一般掠过,如同瀑布潭之燕。 如果只是一只飞机的话还好,会有数不清的飞机在之后和之后飞来飞去。 在这情景的放映过程中,与此相辅相成,反映出由那些轰炸机自身固定的照相机拍摄出的四边眼花缭乱的景象。 通过这部电影,实现了我们祖先几万年来一直羡慕的希望。 我们通过看这部电影,变成了我们自己在森林树间穿行的山鸽和橡树鸟。

“太平洋爆击队”这样的电影唤起了极大的人气。电影这样的东西,虽然我们忍受不了前期准备,我想实际上是非常不容易做好的事情,如果做一做看,似乎会博得大众的喝彩。怪不得这部电影有那样的事情。最有趣的是,三架大飞机机头并列着在断云中飞行着,在那上空追击的一队轰炸机急速俯冲,如碎石般落了下来,飞机的横腹与横腹之间狭窄的空间,如电光般掠过的,是瀑布上的燕子在飞舞的情景。如果只是一架说得过去,数不清的大批飞机,从后面,再从后面飞来飞去。与这个情景的映象之间相错综的,是从轰炸机自身安装的摄影机所拍摄的四周令人眼花缭乱的情景。根据这部电影,我们的祖先在数万年期间持续令人羡慕的愿望实现了。而我们看了这部电影,我们自身在森林的树木之间翱翔,变成了山鸠和鲣鸟。

こういう飛行機の操縦をするいわゆる鳥人の神経は訓練によって年とともに次第に発達するであろう。世界の人口の三分の一か五分の一かがことごとくこの鳥人になってしまったとしたら、この世界は一体どうなるであろうか。

操纵这样的飞机,所谓的鸟人的神经经过训练,随着年龄的增长会逐渐发达了吧。世界人口的三分之一也好,五分之一也好,全都变成了鸟人,这个世界到底成了什么呀?

昔の日本人は前後左右に気を配る以外にはわずかに鳶に油揚を攫われない用心だけしていればよかったが、昭和七年の東京市民は米露の爆撃機に襲われたときに如何なる処置をとるべきかを真剣に講究しなければならないことになってしまった。襲撃者は鳶以上であるのに爆撃される市民は芋虫以下に無抵抗である。

过去的日本人,除了要警惕前后左右以外,只要注意不被鹰叼走油炸糕就行了。然而昭和七年,东京市民在北美国轰炸机袭击的时候,应该如何处置必须认真讲究了。袭击者袭击者是高于鹰之上的轰炸,而市民是青虫之下的毫无抵抗之辈。

ある軍人の話によると、重爆撃機には一キロのテルミットを千箇搭載し得るそうである。それで、ただ一台だけが防禦の網をくぐって市の上空をかけ廻ったとする。千箇の焼夷弾の中で路面や広場に落ちたり河に落ちたりして無効になるものが仮りに半分だとすると五百箇所に火災が起る。これは勿論水をかけても消されない火である。そこでもし十台飛んで来れば五千箇所の火災が突発するであろう。この火事を呆然として見ていれば全市は数時間で火の海になる事は請合いである。その際もしも全市民が協力して一生懸命に消火にかかったらどうなるか。市民二百万としてその五分の一だけが消火作業に何らかの方法で手を借し得ると仮定すると、四十万人の手で五千箇所の火事を引受けることになる。すなわち一箇所につき八十人宛ということになる。さて、何の覚悟もない烏合の衆の八十人ではおそらく一坪の物置の火事でも消す事は出来ないかもしれないが、しかし、もしも十分な知識と訓練を具備した八十人が、完全な統制の下に、それぞれ適当なる部署について、そうしてあらかじめ考究され練習された方式に従って消火に従事することが出来れば、たとえ水道は止まってしまっても破壊消防の方法によって確実に延焼を防ぎ止めることが出来るであろうと思われる。

根据一位军人的话,重型轰炸机似乎能够搭载一千个燃烧弹。因此,只要一架轰炸机突入市区,就可以在其上空到处盘旋。在一千个燃烧弹之中,假定半数落在路面、广场、河里而无效,而另一半投中了的话,就会造成五百个场所发生火灾。这里还不算即使浇水也扑灭不了的火。如果对这样的火灾熟视无睹的话,全市在数个小时内一定会变成火海。在此之际,全市民众协力着手灭火还能干什么呢?就算市民只出动五分之一两百万人,至于以何种方式进行灭火作业,假定都是各行其是,四十万人要承担五千个火灾现场的灭火。也就是说,每一个火灾现场要有八十人。那么,毫无觉悟的乌合之众,八十人恐怕连一起一坪大小物业的灭火都不能完成,可是,具备相当知识和训练的八十人,在完全的统一制度下,在各自得到适当的部署后,然后在事前进行了讲究的练习,我想在这样的灭火方式下,确实能够防止火灾延续。

これは極めて大ざっぱな目の子勘定ではあるが、それでもおおよその桁数としてはむしろ最悪の場合を示すものではないかと思われる。

这是一个非常粗略的估算,我想虽然如此作为大约的位数,不用说也显示了最坏的情况。

焼夷弾投下のために怪我をする人は何万人に一人くらいなものであろう。老若の外の市民は逃げたり隠れたりしてはいけないのである。空中襲撃の防禦は軍人だけではもう間に合わない。

由于投下的燃烧弹,受伤的人何止一万分之一。外面的老弱市民不得不有的逃难,有的藏匿。空中袭击并不只是对准防御的军人。

もしも東京市民が慌てて遁げ出すか、あるいはあの大正十二年の関東震災の場合と同様に、火事は消防隊が消してくれるものと思って、手をつかねて見物していたとしたら、全市は数時間で完全に灰になることは確実である。昔の徳川時代の江戸町民は永い経験から割り出された賢明周到なる法令によって非常時に処すべき道を明確に指示され、そうしてこれに関する訓練を十分に積んでいたのであるが、西洋文明の輸入以来、市民は次第に赤ん坊同様になってしまったのである。考えると可笑なものである。

假如东京市民的仓皇出逃,或者与那大正十二年的关东地震的情况一样,认为火灾应该让消防队来扑灭,大家袖手旁观的话,全市几个小时就会完全化为灰烬,这是确实无疑的。根据过去德川十大的江户民众永远的经验,根据推断出来的贤明周到的法令,对非常时期的处置手段有着明确指示,这样一来有关的训练有着深厚的积累,自从西洋文明输入以来,市民渐渐地变得像新生婴儿一样,想起来是多么可笑。

何箇月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れに烏瓜の花に集まる蛾のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落すにはうちの猫では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼みになりそうもない品物である。何か空中へ莫大な蜘蛛の網のようなものを張ってこの蛾を喰い止める工夫は無いものかと考えてみる。あるいは花火のようなものに真綿の網のようなものを丸めて打ち上げ、それが空中でぱっと烏瓜の花のように開いてふわりと敵機を包みながらプロペラにしっかりとからみ付くというような工夫は出来ないかとも考えてみる。蜘蛛のあんなに細い弱い糸の網で大きな蝉が捕られることから考えると、蚊帳一張りほどもない網で一台の飛行機が捕えられそうにも思われるが、実際はどうだか、ちょっと試験してみたいような気がするのである。

几个月,几年,乃至几十年之后,也许有一天敌国的飞机会像夏天黄昏聚集在乌瓜花上的飞蛾一样一时飞来。但是要把这只大蛾子打掉,我们的猫来不及了。这是一种即使从高射炮等常识来考虑也无法依赖的东西。我在想,有没有什么办法在空中张起巨大的蜘蛛网来咬住这只蛾呢? 或者在烟花之类的东西上卷起棉网之类的东西,在空中一下子像乌瓜花一样展开,轻轻地包围着敌机,紧紧抱住螺旋桨,这样的功夫也要考虑一下。 从蜘蛛那么细弱的铁丝网能捕捉到大蝉这一点来看,好像一张蚊帐那么少的网就能捕捉到一架飞机,但实际上怎么样,我想试一下。

子供の時分に蜻蛉を捕るのに、細い糸の両端に豌豆大の小石を結び、それをひょいと空中へ投げ上げると、蜻蛉はその小石を多分餌だと思って追っかけて来る。すると糸がうまい工合に虫のからだに巻き付いて、そうして石の重みで落下して来る。あれも参考になりそうである。つまりピアノ線の両端に重錘をつけたようなものを矢鱈と空中に打ち上げれば襲撃飛行機隊は多少の迷惑を感じそうな気がする。少なくも爆弾よりも安価でしかも却って有効かもしれない。

戦争のないうちは吾々は文明人であるが、戦争が始まるとたちまちにして吾々は野蛮人になり、獣になり鳥になり魚になり、また昆虫になるのである。機械文明が発達するほど一層そうなるから妙である。それで吾々はこれらの動物を師匠にする必要が起って来るのである。潜航艇のペリスコープは比良目の眼玉の真似である。海翻車ひとでの歩行は何となくタンクを想い出させる。ガスマスクを付けた人間の顔は穀象か何かに似ている。今後の戦争科学者はありとあらゆる動物の習性を研究するのが急務ではないかという気がして来る。

在没有战争的时候,我们是文明人,但战争一开始,我们很快就会变成野蛮人,变成野兽,变成鸟,变成鱼,甚至变成昆虫。 机械文明越发达,情况就越奇怪。 所以,我们有必要请这些动物做老师。 潜水艇的蠕形螨是模仿比良眼睛的眼珠子。 一个翻车机行走总让人想起油箱。 戴着防毒面具的人的脸像谷象什么的。 我觉得今后的战争科学家急需研究所有动物的习性。

光の加減で烏瓜の花が一度に開くように、赤外光線でも送ると一度に爆薬が破裂するような仕掛も考えられる。鳳仙花の実が一定時間の後に独りではじける。あれと似たような武器も考えられるのである。しかし真似したくてもこれら植物の機巧はなかなか六かしくてよく分らない。人間の智慧はこんな些細な植物にも及ばないのである。植物が見ても人間ほど愚鈍なものはないと思われるであろう。

也可以考虑这样的设计,就像乌瓜花在光的加减下一次就开一样,即使是红外线也能一次引爆炸药。 凤仙花的果实在一定时间后会自行破裂。 也可以考虑和那个类似的武器。 但是即使想模仿,这些植物的机巧也很难弄清楚。 人的智慧连这点小事都不如。 植物看起来应该没有人类那么愚昧吧。

秋になると上野に絵の展覧会が始まる。日本画の部にはいつでも、きまって、色々の植物を主題にした大作が多数に出陳される。ところが描かれている植物の種類が大抵きまり切っていて、誰も描かない植物は決して誰も描かない。例えば烏瓜の花の絵などついぞ見た覚えがない。この間の晩、床に這入ってから、試みに宅の敷地内にある、花の咲く植物の数を数えてみた。二、三十もあるかと思って数えてみたら、実際は九十余種あった。しかし帝展の絵に現われる花の種類は、まだ数えてみないが、おそらくずっと少なそうである。

一到秋天上野就开始画展。 日本画的内部总是陈列着很多以各种植物为主题的大作。 但是,被描绘的植物的种类基本上都很清晰,谁也画不了的植物,谁也绝不会画。 例如乌瓜花的画什么的,我不记得看过。 前几天晚上,爬进地板后,尝试着统计了一下住宅用地内开花的植物的数量。 我以为有二三十个,结果数了一下,实际上有九十多种。 但是在帝展的画中出现的花的种类,还不算,但恐怕一直很少。

数の少ないのはいいとしても、花らしい花の絵の少ないのにも驚歎させられる。多くの画家は花というものの意味がまるで分らないのではないかという失礼千万な疑いが起るくらいである。花というものは植物の枝に偶然に気紛れにくっついている紙片や糸屑のようなものでは決してない。吾々人間の浅墓な智慧などでは到底いつまでたっても究め尽せないほど不思議な真言秘密の小宇宙なのである。それが、どうしてこうも情ない、紙細工のようなものにしか描き現わされないであろう。それにしても、ずっと昔私はどこかで僧心越の描いた墨絵の芙蓉の小軸を見た記憶がある。暁天の白露を帯びたこの花の本当の生きた姿が実に言葉通り紙面に躍動していたのである。

不管是数量少的好,还是像花一样的花的画少,都令人惊叹。 许多画家对花是不是完全不知道,产生了失礼千万的怀疑。 花决不是偶然粘在植物树枝上的纸片或线头。 吾这是人类浅墓的智慧等无论如何都无法究尽的不可思议的真言秘密的小宇宙。 那个,为什么只能描绘成如此无情的,纸工艺品一样的东西呢? 尽管如此,很久以前我还记得在什么地方看到过僧心越画的水墨画芙蓉的小轴。 这朵带着晓天白露的花,真的是活生生地跃动在纸面上。

今年の二科会の洋画展覧会を見ても「天然」を描いた絵はほとんど見付からなかった。昔の絵描きは自然や人間の天然の姿を洞察することにおいて常人の水準以上に卓越することを理想としていたらしく見える。そうして得た洞察の成果を最も卑近な最も分りやすい方法によって表現したように思われる。然るにこの頃の多数の新進画家は、もう天然などは見なくてもよい、か、あるいはむしろ可成的見ないことにして、あらゆる素人よりも一層皮相的に見た物の姿をかりて、最も浅薄なイデオロギーを、しかも観者にはなるべく分りにくい形に表現することによって、何かしら大したものがそこにありそうに見せようとしている、のではないかと疑われても仕方のないような仕事をしているのである。これは天然の深さと広さを忘れて人間の私を買いかぶり思い上がった浅墓な慢心の現われた結果であろう。今年の二科会では特にひどくそういう気がして私にはとても不愉快であった。尤もその日は特に蒸暑かったのに、ああいう、設計者が通風を忘れてこしらえた美術館であるためにそれが更に一層蒸暑く、その暑いための不愉快さが戸惑いをして壁面の絵の方に打つかって行ったせいもあるであろう。実際二科院展の開会日に蒸暑くなかったという記憶のないのは不思議である。大正十二年の開会日は朝ひどい驟雨があって、それが晴れると蒸暑くなって、竹の台の二科会場で十一時五十八分の地震に出遇ったのであった。そうして宅へ帰ったら瓦が二、三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下に耀かしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に拡がりつつあった。そうして生きながら焼かれる人々の叫喚の声が念仏や題目の声に和してこの世の地獄を現わしつつある間に、山の手では烏瓜の花が薄暮の垣根に咲き揃っていつもの蛾の群はいつものように忙せわしく蜜をせせっているのであった。

即使看了今年二科会的西洋画展,也几乎没有发现描绘“天然”的画。 过去的绘画似乎在洞察自然和人类天然的面貌方面以超乎常人的水平为理想。 似乎是用最浅显易懂的方法表现了这样得到的洞察成果。 然而,此时的许多新进画家已经不需要再看天然之类的了,或者宁可不看可成,而是摆出比所有外行更肤浅的东西的样子,把最浅薄的意识形态表现得尽可能地难以理解,从而 这是忘记了天然的深度和广度,高估了作为人类的我的浅墓自大的结果吧。 今年的二科会感觉特别严重,我很不高兴。 虽然当天特别闷热,但是因为是那样的设计者忘记通风设计的美术馆,所以更是闷热,因为那种炎热而不愉快,撞到了墙上的画上,也有这样的原因吧。 实际上,很奇怪,二科院展的开幕式没有闷热的记忆。 大正十二年的开幕式早上下了很大的暴雨,天晴后变得闷热,在竹台二科会场遇到了十一点五十八分的地震。 然后回到家,发现瓦掉了两三块,墙上的土有点溢出来了,但院子里的叶鸡头仿佛天下无事一样,把鲜红的叶子悬挂在深蓝色的天空下。 但是到了那个时刻,那场可怕的前所未有的火灾漩涡已经蔓延到了下町一带。 就在这被活活烧死的人叫嚣声随着念佛和题目的呼声,逐渐显露出人间地狱之际,山上乌瓜花盛开在薄暮篱笆上,这群蛾子像往常一样忙碌着蜂蜜。

地震があれば壊れるような家を建てて住まっていれば地震の時に毀れるのは当り前である。しかもその家が、火事を起し蔓延させるに最適当な燃料で出来ていて、その中に火種を用意してあるのだから、これは初めから地震に因る火災の製造器械を据付けて待っているようなものである。大火が起れば旋風を誘致して焔の海となるべきはずの広場に集まっていれば焼け死ぬのも当然であった。これは事のあった後に思うことであるが、吾々には明日の可能性は勿論、必然性さえも問題にならない。

如果建造如果有地震就会损坏的房子居住的话,地震时毁灭是理所当然的。 而且,因为那所房子是用最适合引起火灾并使其蔓延的燃料制成的,其中备有火种,这就像从一开始就安装了地震引起的火灾的制造仪器等待着。 如果发生大火,吸引旋风聚集在本应成为火焰之海的广场,自然会被烧死。 这是在事情发生之后想的,但对我们来说,明天的可能性自不必说,必然性也不成为问题。

動物や植物には百千年の未来の可能性に備える準備が出来ていたのであるが、途中から人間という不都合な物が飛び出して来たために時々違算を生じる。人間が燈火を発明したためにこれに化かされて蛾の生命が脅かされるようになった。人間が脆弱な垣根などを作ったために烏瓜の安定も保証されなくなってしまった。図に乗った人間は網や鉄砲やあらゆる機械を工夫しては鳥獣魚虫の種を絶やそうとしている。因果はめぐって人間は人間を殺そうとするのである。

动物和植物已经做好了为一百千年未来的可能性做准备,但是因为中途突然出现了人类这样不好的东西,所以有时会产生误会。 由于人类发明了灯光,蛾的生命受到了感染。 由于人类建造了脆弱的篱笆等,乌瓜的稳定也无法保证。 上了图的人想方设法网、枪和所有机器,把鸟兽鱼虫的种子灭绝。 围绕因果,人类想要杀死人类。

戦争でなくても、汽車、自動車、飛行機はみんな殺人機械である。

この頃も毎日のように飛行機が墜落する。不思議なことには外国から遠来の飛行機が霞ヶ浦へ着くという日にはきまって日本のどこかで飛行機が墜落することになっているような気がする。遠来の客へのコンプリメントででもあるかのように。

即使不是战争,火车、汽车、飞机都是杀人机器。

最近飞机也每天坠落。 奇怪的是,我觉得从国外来的飞机到霞浦这一天,一定是在日本的某个地方飞机坠毁了。 好像也是对远方客人的概括。

蜻蛉や鴉が飛行中に機関の故障を起して墜落するという話は聞かない。飛行機は故障を起しやすいように出来ているから、それで故障を起すし、鳥や虫は決して故障の起らぬように出来ているから故障が起らなくても何も不思議はない訳である。むしろ、一番不思議なことは落ちるときに上の方へ落ちないで必ず下に落ちることである。物理学者に聞けば、それは地球の引力によるという。もっと詳しく聞くと、すぐに数式を持ち出して説明する。そんならその引力はどうして起るかと聞くと事柄は一層六かしくなって結局到底満足な返答は得られない。実は学者にも分らないのである。

蜻蜓和乌鸦在飞行中发生发动机故障,坠落的故事不在话下。 飞机是为了容易发生故障而制造的,所以才会发生故障,鸟和虫也是为了绝对不会发生故障而制造的,所以即使不发生故障也没什么奇怪的。 倒不如说,最不可思议的是掉落的时候不要往上掉,一定会往下掉。 据物理学家说,那是由于地球的引力。 问得更详细一点,马上拿出数学公式来说明。 如果是那样的话,那引力为什么会发生呢,事情变得更糟了,最终也得不到满意的回答。 其实学者也不知道。

吾々が存在の光栄を有する二十世紀の前半は、事によると、あらゆる時代のうちで人間が一番思い上がって吾々の主人であり父母であるところの天然というものを馬鹿にしているつもりで、本当は最も多く天然に馬鹿にされている時代かもしれないと思われる。科学がほんの少しばかり成長して丁度生意気盛りの年頃になっているものと思われる。天然の玄関をちらと覗いただけで、もうことごとく天然を征服した気持になっているようである。科学者は落着いて自然を見もしないで長たらしい数式を並べ、画家はろくに自然を見もしないで徒に汚らしい絵具を塗り、思想家は周囲の人間すらよくも見ないで独りぎめのイデオロギーを展開し、そうして大衆は自分の皮膚の色も見ないでこれに雷同し、そうして横文字のお題目を唱えている。しかしもう一歩科学が進めば事情はおそらく一変するであろう。その時には吾々はもう少し謙遜な心持で自然と人間を熟視し、そうして本気で真面目に落着いて自然と人間から物を教わる気になるであろう。そうなれば現在の色々なイズムの名によって呼ばれる盲目なるファナチシズムの嵐は収まって本当に科学的なユートピアの真如の月を眺める宵が来るかもしれない。

我们拥有存在光荣的二十世纪的前半叶,据我所知,也许是所有时代中人类最骄傲自大,最瞧不起我们的主人和父母的天然事物的时代。 我觉得科学只成长了一点点,正好到了狂妄自大的年龄。 只要瞥一眼天然大门,就仿佛已经感觉征服了天然。 科学家冷静下来,不看自然,摆着冗长的公式,画家不仔细看自然,给学生涂上肮脏的颜料,思想家甚至不仔细看周围的人,展开自以为是的意识形态,而大众也不看自己的皮肤颜色,就这样背诵着横幅 但是,如果科学再进一步发展的话,情况恐怕会发生变化。 那个时候,我们会以更加谦虚的心情来审视自然和人类,然后认真冷静下来自然地向人类请教东西吧。 这样的话,被现在各种各样的节奏称呼的盲目的法西斯风暴也许会平息,夜晚也许会迎来真正眺望科学乌托邦似的月亮。

ソロモンの栄華も一輪の百合の花に及ばないという古い言葉が、今の自分には以前とは少しばかりちがった意味に聞き取られるのである。

(昭和七年十月『中央公論』)

所罗门的荣华也不及一朵百合的花这句古话,现在的自己能听到和以前略有不同的意思。

(昭和七年十月《中央公论》)

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