ノルウェーの森 2.3

しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。——『ノルウェーの森』村上春樹

 僕が突撃隊と彼のラジオ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い話のつもりではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは――それはほんの一瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだった。

 僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやんだりしていた雨も昼前には完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南からの風に追い払われるように姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。日差しはもう初夏のものだった。擦れ違う人々はセーターや上着を脱いて肩にかけたり腕に抱えたりしていた。日曜日の午後の暖かい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニスコートでは若い男がシャツを脱いでショートハンツ一枚になってラケットを振っていた。並んでペンチに座った二人の修道尼だけがきちんと黒い冬の制服を身に纏っていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光もまだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日向での会話を楽しんでいた。

 十五分も歩くと背中に汗が滲んできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いでTシャツ一枚になった。彼女は淡いグレーのトレーナーシャツの袖を肘の上までたくし上げていた。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと同じシャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多くのことを覚えていたわけではなかった。

 「共同生活ってどう?他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?」と直子は訊ねた。

 「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。「でもそれほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなことはないな」

 彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんの一口だけ水を飲み、ズボンのポケットから白いハンカチを出して口を拭いた。それから身をかがめて注意深く靴の紐を締め直した。

 「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」

 「共同生活のこと?」

 「そう」と直子は言った。

 「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるといえばある。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半にラジオ体操を始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはならない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ」

 「そうね」と言って彼女は頷き、しばらく何かに思いを巡らせているようだった。そして珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどきりとするくらい深く透き通っていた。彼女がそんな透き通った目をしていることに僕はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかったのだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。

 「寮か何かに入るつもりなの?」と僕は訊いてみた。

 「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同生活をするのってどんなだろうって。そしてそれはつまり……」、直子は唇を噛みながら適当な言葉なり表現を探していたが、結局それは見つからなかったようだった。彼女は溜め息をついて目を伏せた。「よくわからないわ、いいのよ」

 それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少しうしろを歩いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年の間に直子は見違えるほどやせていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。彼女のやせ方はとても自然で物静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだというふうだった。そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっときれいだった。僕はそれについて直子に何か言おうとしたが、どう表現すればいいのかわからなかったので結局は何も言わなかった。

 我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央線の電車の中で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の本屋に行くところだった。別にどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りましょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだけのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話し合うべき話題なんてとくに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言い出したのか、僕には全然理解できなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。

 駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なくそのあとを追うように歩いた。直子と僕の間には常に一メートルほどの距離があいていた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気後れがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほど後ろを、彼女の背中とまっすぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪留めをつけていて、横を向くと小さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているのか聞き取れないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は思ってあきらめた。

 しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道程だ。駒込に着いたときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕暮れだった。

 「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。

 「駒込」と僕は言った。「知らなかったの?我々はぐるっと伺ったんだよ」

 「どうしてこんなところに来たの?」

 「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」

 我々は駅の近くのぞば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一人でビールを飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言も口を利かなかった。僕は歩き疲れていささかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでいた。TVのニュースが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。

 「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。

 「びっくりした?」

 「うん」

 「これでも中学校の頃には長距離の選手で十キロとか十五キロとか走ってたのよ。それに父親が山登りが好きだったせいで、小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。ほら、家の裏がもう山でしょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」

 「そうは見えないけどね」と僕は言った。

 「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見かけによらないのよ」彼女はそう言ってから付け足すように少しだけ笑った。

 「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」

 「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」

 「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もなかったものな」と僕は言ったが、何を話したのか思い出そうとしてもさっぱり思い出せなかった。

 彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。

 「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだけど――私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわかっているんだけど」

 「筋合?」と僕はびっくりして言った。「筋合じゃないってどういうこと?」

 彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。

 「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナーシャツの両方の袖を肘の上まで引っ張り上げ、それからまたもとに戻した。電灯が産毛をきれいな黄金色に染めた。「筋合なんて言うつもりはなかったの。もっと違ったふうに言うつもりだったの」

 直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったカレンダーを見ていた。そこに何か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女は溜め息をついて目を閉じ、髪留めをいじった。

 「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」

 「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当違いな言葉しか浮かんでこないの。見当違いだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しょうとすると、もっと余計に混乱して見当違いになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追いかけっこをしてるみたいなそんな感じなの。真ん中にすごく太い柱が建っていてね、そこのまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉っていうのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」

 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。

 「そういうのってわかる?」

 「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。「みんな自分を表現しょうとして、でも正確に表現できなくてそれでイライラするんだ」

 僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。

 「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。

 「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろしているし、歩くのは健康にいいしね」

 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗り換えた。彼女は国分寺に小さなアパートを借りて暮していたのだ。

 「ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?」と別れ際に直子が訊いた。

 「少し変ったような気がするね」と僕は言った。「でも何がどう変ったのかはよくわからないな。正直言って、あの頃はよく顔を合わせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから」

 「そうね」と彼女もそれを認めた。「今度の土曜日に電話かけていいかしら?」

 「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。

あらかた:大部分,几乎全部,大致,大体上。(ほとんど全部。大体。名詞的にも用いる。)

1)あらかたの人は納得した。/大部分人同意了。

2)仕事はあらかた終わった。/工作基本上干完了。

気後れ:胆怯,畏缩。

1)たくさんの人を前にして気後れがする。/在众人面前觉得胆怯。

華奢:念作かしゃ时,意思是“奢华,奢侈”。念作きゃしゃ时,意思是“苗条;纤弱”。

1)華奢な女。/苗条的女人。

2)この家のつくりは華奢だ。/这所房子盖得不结实。

産毛(うぶげ):胎毛;汗毛

追いかけっこ:小孩子之间互相追赶的一种游戏活动。




文法:


1,鮮かな緑色をした桜の葉が風揺れ、太陽の光をきらきらと反射させていた。

之前说过,に可以表示原因。

a. 表示行为动作的原因

1)トラが銃弾に倒れた。

2)彼女は恋に苦しんでいる。

3)彼は家庭の不和に悩んでいる。

4)大きな音に驚いて目を覚ました。

5)あまりのうれしさに泣き出した。

2,日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみんな幸せそうに見えた

类似的表现很多,主要是“看上去...”“听起来...”这类感觉,具体我也一时举不全。に为格助词,提出看(听)到的状态和内容。

1)若々しくてとても60歳には見えない。(若く見える、老けて見える)

2)表情からは順調に行っているとは見えない。

3)彼の話は本当のように聞こえる。

4)冗談のつもりかもしれないが、冗談に聞こえないよ。

5)彼の言うことはいつももっともらしく聞こえる。

3,土手の向う見えるテニスコートでは若い男がシャツを脱いでショートハンツ一枚になってラケットを振っていた。

我大一扣语法抠得很厉害,下课就抓着张彬(我大一时的基础日语老师)一个一个助词去抠。刚好当时《日语精读》课后例句有一句大概是什么“遠くに山が見える”之类的,另一句是“図書館の二階からxxxが見える”之类的。她说:这个に表示方向,相当于から。

4,十五分も歩くと背中に汗が滲んできたので、僕は厚い木綿のシャツを脱いでTシャツ一枚になった。

又来了,这个に。上回举例过“背中に汗をかく”“肌に風邪を感じ”,当时说に不是“表示行为动作的主体”就是“表示动作的对象”,反正就那么回事吧,先用着,我也不知道~

5,どうかな、そういうのって考え方次第だからね。

a, 跟在名词后   全凭;要看...而定

1)するかしないかは、あなたしだいだ。

2)結婚した相手次第で人生が決まってしまうこともある。

b, 跟在动词ます形后面   (一旦)...立刻、马上   【这也是我工作中向师傅报告时用得较多的句型,呵呵哒...】

1)落し物が見つかりしだい、お知らせします。

2)天気が回復し次第、出航します。

c, 跟在动词简体后  表示原委、因由

1)とりあえずお知らせした次第です。/ 暂且通知。

用以表示事情至此的原委、因由。是书面语。在惯用语句中有时还可以使用形容词。

2)こんなことになってしまい、まったくお恥ずかしい次第です。/ 事到如此,实在令我汗颜。

d, こととしだいによって 根据情况、视其情况  【固定用法】 

1)こととしだいにとって、計画を大幅に変更しなければならなくなるかもしれない。

2)こととしだいによっては、事件の当事者だけでなく責任者も罰することになる。

6,直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少しうしろ歩いた。

表示“行为动作所经由、移动的空间”。

7,特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。

【N、NといったN】

用于列举,相比较【N、NというN】、有“这不是全部,还有其他”的含义。

1)黒沢、小津といった日本の有名な映画監督の作品を上映するそうだ。

2)この学校には、タイ、インドネシア、マレーシアといった東南アジアの国々からの留学生が多い。

8,正直言って、あの頃はよく顔を合わせていたわりにあまり話をしたという記憶がないから

【わりに(は)】(比较起来)虽然...但是...

1)あのレストランは値段のわりにおいしい料理を出す。

2)あの人は細いわりに力がある。

あまり勉強しなかったわりにはこの前のテストの成績はまあまあだった。

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