高级日本文学作品导读 第六课 树木的怪异 木の怪しさ
作者介绍:
幸田文,1904年—1990年。小说家,随笔家。出生于东京都。明治的文豪幸田露伴的次女,因描写晚年的父亲的随笔《这样的事情》、《用尽大酱》而为人瞩目。之后,也执笔写小说,作品有《流动》、《黑色山麓》、《斗争》、《弟弟》等。
翻译 王志镐
去年夏初,碰巧目睹静岗县大谷岭发生被称为大山崩的巨大崩塌事件,受到强烈震撼。听说山崩地带作为安倍河河流发源地,还是一条十分棘手而难以处置的河流,我对这种不幸怀有难以言表的空寂和悲愁。
去年の夏の初め、たまたま静県大谷嶺の、大谷崩れと呼ばれる巨大な崩壊を見て、強いショックを受け、さらにその崩壊地を源として流れ出す安倍川が、これまた手強い難処置の川であることを聞いて、その因果に、なんとも言えない寂しさと愁いを持たされてしまった。
从那以来,由于面对山崩、土地荒芜之类的事情,使我精神紧张,渐渐日积月累地,我去看了富士山大山崩,男体山横裂,唯有见到了这样的情景,我才能很好地区分:山崩的现场各有不同的情况,其气氛也各不相同。现在正处于崩塌威胁之中的地方有之,已进入衰老期而平静下来的地方有之,正处于暂停状态的地方也有之。充满了恐怖感的山崩地带有之,到处飘浮着悲愁的地方有之,像是在被凶猛地追逼着地方也有之。不过总的来说山崩地带的共同点,我觉得是好不凄凉。由于山崩而凸出来的大岩石,在极其倾斜的坡度落下的过程中,在不可思议的自然的平衡作用下,堆积成重重乱石堆,在几乎无法通行的地方,站在下面向上仰望,摇摇晃晃令人害怕。我鼓起勇气慢慢地回头望去,看见那重重叠叠的岩石群,崩塌的山体越大,就越是对惨不忍睹的情景有了深刻认识。虽然可怕,可是那内心经历的事情是凄惨的,如今我还是那么想的。
それ以来、崩壊、荒廃、ということへ気持ちが向いてしまったので、ぽつぽつと少しずつ、富士山の大沢崩れ、男体山の薙などを見に行っているが、立ったこれだけを見たのですから、崩壊現場はみなそれぞれに違う様相を持ち、雰囲気もそれぞれに違う、ということがよくわかれ。今暴れ散らしている最中のもあるし、もう老いて鎮まろうとするかに見えるのもあるし、小休止をしているようなのもある。恐怖感がみなぎっている崩れもあり、一面に悲愁が漂うのもあり、たけだけしく迫っているというようなのもある。だが、総じて崩壊地が共通に持っているものは、痛ましさではないかと思う。崩壊の押し出した大岩石が、急傾斜を落下していく途中で、不思議な自然のバランスで幾重にも積み重なって、危なく止まっているという場所の、すぐ下に立って振り仰げば、恐ろしさでガタガタするが、勇気を奮ってゆっくりと見回してみると、その重重と重なる岩石群は、がかいが大きいだけに、よけい痛ましさも濃く滲み出しているのがよく分かる。すさまじくても、その底にあるものは痛ましさだと、今のところ私はそう思っている。
在接触这样一个个凄惨情景期间,我突然发觉:不知在何时,我见到树木的心情与以前有了很大的不同。通过与树木的相会,希望得到来自树木的感动,而在林中散步,好像还是哪一年的事情呢。由于那条道路专门为各位提供了随时而适当的指导,我在短短的岁月中,遇到了北海道的蝦松的戏剧性事件,木曾的丝柏的戏剧性事件,屋久岛的杉树的风貌,与各种各样的树木邂逅,为它们的优良品质而感动。从而洗涤心中的污垢,补充心中新的养分。所以,我一直有这样的想法:树木也好,树林也好,都是我们的美味良药。
そういう痛ましさに一つ一つ触っていくうち、気がつくと何時の間にか、樹木を見る気持ちが、以前とはだいぶ違ってしまっているのに、はっとした。樹木に会い、樹木から感動をもらいたいと願って、林の中を歩くようになったのは、まだつい何年かのことである。その道専門の方々に、その都度、適切なコーチをいただいたので、短い年月のうちに北海道のえぞ松のドラマ、木曾のひのきのドラマ、屋久島の杉の風貌と、いろいろな樹木の、良質を感動に巡り合うことができた。それは心の汚れを洗われることであり、心中に新しい養分を補給されることだった。だから私は樹木も林も、良薬にして美味、といっあような思いを持っていた。
在目睹山地崩塌,河流荒芜期间,想到的是什么时候森林也好,树木也好,可以消除忧愁,再也不用担心。并排的杉树林毫无变化,茁壮成长,从一根枝条扩展开来的樟树也毫无变化。照耀着的阳光,吹动着的风不用说也毫无变化。尽管如此,无论见了哪棵树,总觉得它们内心不快活,伴随着不安的心情眺望着。就在眼前,万一这斜坡崩塌了,或者这河岸被水流冲塌了,如此等等的担心是据首位的。如果发生崩塌,美丽的森林被斩首似的颠覆横扫,洪水一来,沿河的松树和柳树被毫无痛苦地斩尽杀绝。地形、河流使人牵挂,而我独自一个人是在为绿色的生命而担心吧?
それが山地の崩壊と、川の荒れに目を取られているうちに、気づけばいつか森、林も樹木も愁いを刷いた。気遣わしいものになっていた。すくすくと立ち並ぶ杉の植林に変わりはなく、ひと本枝を広げた楠にも変わりはない。照る日、吹く風にももちろん変わりない。それなのにどの木を見ても、何か真底明るくはなく、何か不安な気分を伴って眺める。つい、まさかこの斜面は崩壊すまいなとか、もしやこの川岸は削り流されるのではあるまいか、などという気が先立つのである。崩壊が起きれば、美林もひとなぎで逆さに払われるし、洪水になれば川沿いの松や柳は、苦もなくそぎ落とされる。地形、河流が気になって、ひとりでに青いものにいのちを気遣わしくおもうのだろう。
不久夏天过去了,已经到了八月末。尽管大山崩变少了,然而我一直在想,我一定要去看了四次。可是我在盛夏好像是中暑了,一动也动不了。在等待体力恢复期间,夏天已只能看见一个背影。不论是住宿也好,食物、衣物也好,经过春夏秋冬四个季节再看,还是不能明白事情的大概。也许山川之类的东西,四季没有变化的地方,早晚也好,晴雨也好,看上去都没有变化,至少一年四季去看了四次没有被侵害的话,就不值一提了。八月末,夏天已经处于下坡了,下着小雨,我精神抖擞地出了门。
そのうちに日が過ぎて、八月も末になっていた。大谷崩れは少しなくとも、四回は見に行かなくてはならないと思っているたのに、真夏はやはり暑さ負けで思うように動けず、体力の回復を待っているうちに、夏ももう後ろ姿の時季になってしまっていた。住むことにしろ、食べ物.着物にしろ、春夏秋冬、四つの季節を経てみなければ、一通りのこともわかりはしない。まして山や川のようなものは、四季の変化どころではない。まも晴雨でも姿を変えてみせるのだから、せめて四季四回は見ておかないと、話にならないのだ。八月末で夏ももう下がり坂だったので、小雨だったが心せいて出かけた。
沿着河流上了路,可是一出小镇外,就看见芒草的穗儿闪着光芒,紫色的鸡儿肠花时隐时现,寛叶树的叶子因为绿色减弱,显得冷清。草儿业已进入秋天,树木却还遗留在夏天的痕迹中。因为下雨,山也好,河也好,都笼罩在一层薄薄的纱曼之中,山谷一到时候,浓雾便喷涌而出,与以前见到时的风情截然不同。安倍河的河流宽度增大,可是这宽宽的河流中全都是砂砾,却没有流水。晴天可以看见白色的石头,干干的一块块地露着,水流只有河流宽度的十分之一左右,又细又少,几近干枯。今天因为下雨的缘故,石头显得湿润,水量增加,因为水流加快而引人注目。在山里,山涧之中挂着白带似的溪水,那是前几年小山崩的遗迹,将露出的地表润湿。
川に沿った道を登るのだが、町を出外れると、もうススキの穂は光っていたし、よめな花の紫もちらちらと見え、そして広葉樹の葉は、緑が衰えてわびしい色をしていた。草はすでにあきであり、木はまだ夏の名残の中にいた。雨なので山も川も薄く紗をかけているし、谷には時とすると霧が湧き出ている。前に見たときとはだい風情が違う。安倍川は川幅が広い。だがその川幅いっぱいにあるものは砂礫であって、流水ではない。晴れている日は石は白く乾いて粒立って見え、流れは川幅の何十分の一かくらいに、細く少しなく枯れているが、今日は雨のおかげで石も潤んでいるし、水量も少し増えて、流れの速さが目に付く。山は山で、谷谷には白い糸のような水を掛けているし、先年の小さい崩壊跡は、むき出しの地肌が濡れてなまなましい。
到达大山谷的时候,崩塌的斜面完全被雾包围着,什么也看不见。几乎将手指冻红的冷空气,看上去比雾移动得更快,我想也许来到裂缝处了,我的腿一边颤抖着,一边等着晴朗的瞬间。
大谷へ着いた時、崩壊の斜面はすっかり霧に包まれていて、何も見えなかった。指先が赤くなるほどの冷気だったが、見ていると霧の動きが早いので、ひょっとしたら切れ目が来るかもしれないと思い、貧乏揺るぎをしながら晴れ間を待った。
山腰一带,大雾开始变薄,由于天晴了,所以大吃一惊,比以前看到时,崩塌的斜面显著变小了。难道在这短短的日子里,山体突然变小,使崩塌减少了吗?如果是这样的话,以前看见时的情景,不是要使人发疯了吗?不管怎样,说以前看见时的印象,与今天看见的有很大的差距并不为过。是不是有什么地方被山欺骗了?怀着这样不吉祥的戒备心,我动摇了,可是无论怎么看,崩塌地区变小了。除了怀疑前一次自己的眼睛、自己的印象之外别无办法。在我怎么也不能认可,怎么也不服的期间,大雾又集聚起来,山脊也好,崩塌地带也好,有形的地方渐渐隐去,只剩下茫然和苍白,只能感觉到雨势强劲地敲打着撑着的伞。我想,因为发生了崩塌,才会带有这样的奇异的景色。
霧は山腹のあたりから薄れ始めたが、晴れるに従って驚いたのは、前に見た時より崩壊斜面が著しい小さくていることだった。まさかこの短日月にそんなにも急に、山が小さくなるほど崩れ減ったのではなかろう。とすれば前に見た時の目が、ひどく狂っていたのか。とにかく前に見たときの印象と、今見るものとは広さに差がありすぎた。何かこれは山に化かされてでもいるんじゃないか、というような不吉な警備心もちらと動く、どう見ても崩壊地は、小さくなっていた。前回の時の自分の目、自分の印象を疑うよりほかないのだが、どうも合点がいかず、不服に思ううち、またもう霧が群がりわいて、尾根も崩れも形あるものは順々に隠され、ただ漠々ち薄白いばかり、さしている傘に雨足が強くなっあのだけが確かだった。崩れというのは、こういうあやしさを持っているにかと思った。
不过,我想这并不是崩塌地带变得反常了,而是因为树木的缘故。以前看见时,山腰的一部分已全都是些什么树,那些还未变秃的树枝远远望去如烟似的,一眼望不到边,它们还未受到崩塌面积的破坏影响。可是如今与其说那每一根树枝上长着叶子理应在山体表面繁茂地向上生长,不如说正是这些树使山的面积显得狭窄,看上去好奇怪啊。那也许是绿色的幻术吧?而到了现在,我已经不这么认为了,我感到对树木有了新的了认识。树木是不会说话、不会走路的生物,但仅限于熟人与之亲近而少有交际,作为掩盖大地、用它的广阔胸怀迷惑人的树林,我想人们一定深有体会吧。活着它们是有生命的东西,大概在什么地方,除了有来自田野上的某种思想之外,还有怪异的一面吧。没想到树木的疑惑,就像是在墙垣上见到的那样。在这里,一年四季不少,懂得四季的迁移,可以说仅仅是基础。八月末,虽然已经晚了,可是还在夏天的时候,在枝条上还有叶子的时候,到这里恰好遇到真是三生有幸。如果在落叶之后,就会错过见到这些树与土地的关系了吧?
でも、それは崩壊地がおかしいのではなくて、樹木のせいだと思われる。前の時にも山腹の一部には、すでに何やらの木があったのだが、それたの枝はまだ裸で、遠くからは煙ったようにしか見えず、崩れの面積の障りになるものではなかった。しかし今その枝枝は葉をつけ、山肌の上に盛り上がっているはずだった。むしろ木こそが、山の面積を狭めて見せるあやしさを持っていると言ったらよかろうか。それとも青という色の幻術だろうか。今まで思ったこともなかった、樹木の新しい一面を知った感があった。木は口もきかず歩きもしない慎み深いものだが、なじみ親しむばかりが木との交際ではない、地を隠すもの、広さを惑わすものとしても、心得ていなくてはなるまいと思う。生きていのちのあるもぼは大概が、どこか、何か、はたからは思いのほかの、怪しい一面を持っているらしいが、はからずも樹木の惑わしさを垣間見たような気もした。これだから少しなくも一年四たび、四季の移り変わりを知るのは、ものの基礎だと言える。八月末の、遅れはせながら、まだ夏のうちの、枝に葉のある間に、ここへ来合わせたことは幸せだった。落葉のあとだったら、こういう木と土地の関係は見逃がしていたろう。
我这么想着,踏上了归途,河流的绿洲上,低矮茂密的茱萸和柳树引人注目。它们以前也有过具有厚重感的圆形树姿,十分茂密。柳树即使在开始掉落黄叶的时候,也有着瘦骨嶙嶙的细腰。我想在这种地方,因为没有人下种或移苗,一切都决定于实际情况。只要它们有四五年以上在此平安扎根,那样的话,这条河在四五年期间,可以冲毁这片绿洲的大水也就不可能爆发。柳树和胡颓子是勇敢的树,它们有着开拓者的心。以其他草木为先驱,在河床的石头之间,在中州的砂砾之中,早早地扎根生长着。在营养贫乏的地方,以茁壮的势头成长着。可是如果长得如此茂盛,它们在那里还承担着下一代的抚育。别的树种扎下了根,扩展势力,就消灭了先来者,可惜先驱者的光荣,可怜的下一代柳叶又该如何?于是,近来碎石连绵的荒凉的河床,是在照顾着多么美丽的瘦柳吧?
そう思って帰途につけば、川の州に低く茂るぐみや柳が目に付く。これも前の時には、厚みを持つ丸い形に茂っていたが、柳はもう黄ばんだ葉を落とし始めていて、やせぎすの細身である。こんな場所へ種や苗を下ろす人はいないから、実生に決まっていると思うが、四、五年以上は平安に定着しているということであり、これはまた、この川にここ四、五年の間は、この州を押し流して壊してしまうほどの大水は出ていないということになる。柳やぐみは勇ましいやつで、開拓の心を持っている。他の草木先駆けて、川原の石ころの間、中州の砂の中にいち早く根を下ろして生きる。栄養の乏しいそんな所に、たくましい勢いで茂る。しかしそうして茂れば、そこへは次の代を担う、別の樹種が根を下ろし、勢力を張り、先住者は減びて、あたら先駆けの栄光は、次の柳の葉のいとおしさはどうだろう。そしてまた、このごろた石の続く荒涼の川原の、なんと美しいやせ柳を引き立てていることか。
在这之后,十月去了富士山的常愿寺河作了逆流之行。常愿寺河几乎被说成是防沙部门的圣地,是一条非常凶暴的河流,在它的发源地,还有着鸢山这样的巨大崩塌地区。崩塌的山与凶暴的河有着决定命运的缘分。在这里逆流而上,是完全不可能的。凭借建设省防沙部门人员的陪伴,好歹作了四天三宿的旅行。这其中的第一宿,是在上流的工事事务所下榻的,那只是河岸边的一个所在,有着稍微宽阔的平地,有汽车的终点站,是防沙工事前端的事务所。前面是垂直陡立的河岸,在下面无法形容的有多远的地方,急流冲击在白色的岩石上,后面是几丈高的绝壁耸立着,上面挂着笔直而纤细的瀑布。那绝壁自古就有了,可是现在却到处穿上了五彩缤纷的红叶的锦缎盛装。各种树的海拔都很高,不光能适应寒冷地带,而且扎根很深,有红叶,有黄叶,还有褐色的和橙色的叶子,与浓绿的针叶林交织在一起,美不胜收。真是令人感叹的美丽风景啊。
このあと、十月、富士山の常願寺川をさかのぼる旅をした。常願寺川が砂防のメッカといわれるほどの、ものすごい暴れ川であり、やはりその源には、鳶山という巨大な崩壊地を持つ。崩れる山と暴れる川は、宿命的な縁である。ここをさかのぼることは、ただにはとてもできることではなかったので、建設省立砂防の力添えを拝借して、とにもかくにも三泊四日の旅をした。そのうち一泊は、上流の工事事務所に泊まったのだが、そこは川岸でただ一か所の、やや広い平地になっていて、気動車の終点でもあり、砂防工事先端の事務所である。
前はぞっくりと切り立った岸で、言うまでもなくはるか下に急流が白く岩をかんでおり、後ろの何丈という絶壁がそそり立ち、まっすぐな細い滝がかかっていた。しかもその絶壁は古くからのものなのだろう、一面に色とりどりの紅葉の錦が、今を盛りに飾られていた。木々は標高の高い、寒冷地に適応できるもののみが根づいているので、紅葉もあれば黄葉もあり、褐色もオレンジもあり、良いほどに針葉の濃緑も交じる。樹種はいろいろだが、そのどれもが丈高く伸びず、矮性で盆形の姿していた。絶壁という恐ろしい条件を下に敷いて、その上を装う、紅葉のその美しさ。ため息の出る見事な風景だった。
第二天下雨了,绝壁上的红叶被淋湿了,更加鲜艳无比。昨天还只有一条瀑布,今早却增加了数条白帘挂着,使我不禁为其叫好,感叹道:“真美!”所长一边安详地笑着,一边对我说了这样的事情:因为绝壁上下了雨,就变成了瀑布,渗入到地下,全部集中在这个事务所所在的平地下面,如此想来,那脆弱的土壤下面聚集了大量的水流,——就不能保证不会发生崩塌,虽然肯定是美丽的,我们却不能这么说。而且,现在不会发生崩塌之类的事情吧?他笑着说,这不是嘲笑你,而是真心话。这里是平地,直到几年前有现在的三倍宽,为了慰问所里员工,有两个网球场。可是大雪溶解之后,大雨之后,就立即被削去了,只是因为大量的泥沙落到了河里,被冲走了。如今印迹全无。现在我们立脚的地方,只要跳上几跳就会导致突然崩塌吧?我这样想着,再眺望山谷和万丈深渊,就有一种毛骨悚然的感觉。可是一回头,绝壁上的红叶,真如锦绣绸缎。
翌日は雨だった。絶壁の紅葉はぬれていよいよ鮮やかだし、滝は昨日一本だったものが、今朝は数条に増えて白い糸を引いている。思わずうなって、美しい、と感嘆した。所長さんは穏やかに笑いながら、そんなことも言っていられませんよ、と言う。なぜなら、絶壁に降る雨は、滝になるもの、地下に沁みこむもの、すべてはこの事務所のある平地の下へ集まってくる、と考えられるからであり、その弱い土壌の下へ多くの水が流れ寄るとしたら――崩壊が起きないとは言えませんからねえ、美しいにはちがいないけど、我々はそうも言ってはいられなくて、と言う。そして、いえ、今崩れるようなことはないんですよ、と笑う、しかし、からかいばかりではない。本音でもある。この平地も、何年前までは今の三倍も広くて、所員の慰めのために二面のテニスコートがあったのを、雪解けだか、豪雨だかで、いきなり削り取られて、それだけ多量の土砂は川へ落ち込み、流されて今跡形もないという話なびである。今立つ足元が、何かの弾みでたちまち崩れ去ることもあり得る、と思って谷をのぞけばぞっとする深さである。しかも振り返れば絶壁の紅葉は、まさに錦繍であった。
危险地带的红叶美不胜收,别具一格。尽管旁边有知道详情的人对我说了这些,对危险有了充分认识,可是我想,如果我对此一无所知,我还是一定会对那红叶怀有心痴神秘的想法吧?树木对我还是会有一种诱惑力吧?
危険地の紅葉の美しさは格別であった。危険をよく承知し、詳しく知る人がそばにいて教えてくれればこそだが、もし何も知らないでいたら私はやはり、あの紅葉にきっとばかげた浮かれ方をしていたろうと思う。樹木はやはり、惑わす力を持っているのだろうか。