燐音くんは料理をしない。
僕と一緒に暮らすようになるまでは台所に入ったことすらなかったらしい。聞くところによると実家ではかなり高貴な立場にいたようなので、台所にも入ったことがないというより入らせてももらえなかったのだろう。
僕と暮らし始めてからは、そういった制限がないからかかなり興味津々といった素振りを見せることも多かった。邪魔だからと台所から退かそうとすると、「生意気だ」とか「監督する人間は必要だ」だなんて文句や屁理屈を言いつつ、困ったように少し眉を下げるのだ。別に燐音くんがいたところで料理の監督なんてできやしないだろうに。やっぱり昔の燐音くんは今思い返しても可愛げがある。
今じゃ暴君魔人になってしまって、僕が何を言おうとそんな殊勝な態度はとりやしない。……いや、大好きなアイドルを自分の手で傷つけた夏の頃は、傷つけた分だけ自傷するような有様で弱り切っていたから、ある意味昔の燐音くん以上に殊勝だったかもしれないが。
まあ、そんなことはどうでもいいのだ。僕が欲しいのは健康で健全な状態の燐音くんが反省してくれることであって、不健康で不健全な燐音くんが傷だらけになることじゃない。燐音くんの所為で喉がつまってご飯が食べられなくなるような心地を味わうのはもう懲り懲りなのだ。──閑話休題。
そう、燐音くんは料理をしない。生まれからして携われなかったというのもあるし、僕と一緒にいる間は僕が食べさせていたから必要なかったというのもある。昔と違って今の燐音くんであれば料理の一つくらいやろうと思えばやれるということは知っているが、そもそも本人があまり台所に立ちたがらなかった。燐音くんが自主的に台所に立つのなんて、僕が風邪を引いた時くらいだ。それも年に一度あるかないかという具合である。
別に、無理にでも料理をしてほしいというわけではない。料理すること自体が僕のルーチンワークでありストレス発散でもあるし、生涯の趣味であり宿命でもある。だから、燐音くんがやらなくても僕が勝手にやる……いや、だからこそ燐音くんがやりたがらないのかもしれないが。基本、ひとにお世話されるのが当然と考えているようなナチュラルボーンクズなのだ。のんびりしていれば勝手に料理が運ばれてくるもんだと思っている。
なんて羨ましい。僕だって、何もせずに美味しい料理がずっと食べられるなんていう理想郷に住んでみたいもんである。まあ、そんな僕にとっての理想郷は燐音くんにとっては監獄のような場所だったから、僕の理想の実現が遠のいてしまった過去があるんだけど。それはそれとして。
燐音くんにとって、料理と言うのは特別身近にあるようなものではない。知的好奇心を向けることはあっても、それ自体に特段の興味を向けることは早々ないだろう。
しかし、料理に「興味」がなくったって「食べたいもの」があることは矛盾しない。
燐音くんは料理をしない。でも、「何が食べたいか」ということに関しては、結構拘りがあるようだった。
「ニキ~、カステラ食わせろ」
──ほら、このように。
「はい、じゃあツノが立つまで混ぜといてくださいね」
「ったく仕方ねェなあ……」
「燐音くんがカステラ食べたいって言いだしたんじゃないっすか! 働かざる者食うべからずっすよ!」
「はァ~、せちがれェ~……」
大きな赤いボウルに入れた卵白。軽いプラスチック製のそれを渋々といった体で受け取った燐音くんは、ヘアバンド以外の装飾品を全て外した軽装だった。いつもしている指輪やブレスレットなんかはテーブルの上に置きっぱなしにして、抱えたボウルの中身を覗き込んでいる。当然その両手はアルコール消毒済みだ。
両手を綺麗にすることでキッチンに立ち入ることを僕に許された燐音くんだったけれど、言葉ではなんだかんだとブツブツ文句を言うながら実はそんなに嫌がっている素振りもない。片手に持った泡立て器をボウルの中に突っ込んで、素直にカシャカシャとかき混ぜ始めた。
カウンターキッチンに丸めた背を預けながら、手慣れた様子で泡立て器を扱っている。カシャカシャ、と泡立て器がボウルのふちに当たる音を聞きながら、僕も含み笑いで調理を再開した。
梨の皮を剥いて切り分けたものを、どんどん鍋の中に放り込んでいく。これに砂糖と蜂蜜、レモン汁を加えて煮詰めると美味しいジャムになるのだ。瑞々しい果実は生のままで食べたいと思うくらい魅力的だけれど、今はまだ我慢の時である。一旦ジャムにしてしまえばスイーツにもお肉のソースにもできる万能食材になってくれるし、日持ちもする。それに、完成品を想像しながらじっくりゆったり調理する時間というのもまた至福の時である。
ジャムの使い道を考えながら思わず鼻歌を漏らすと、カウンターを隔てた向こうで燐音くんが小さく笑った声がした。しかし僕の鼻歌に特になにを言うでもない。
ボウルのふちに泡立て器が当たる軽い音、それにコトコト、と梨と砂糖を入れた鍋が音を立てるキッチンは、かつて住んでいたアパートの中みたいにどこか静かで安心感のある空間だった。
しばらくして、ボウルの中を確認した燐音くんが「砂糖は?」と小さな声で問うてくる。いい塩梅にメレンゲが立ってきたらしい。
「カウンター置いとくっすね」
「ン」
分量をはかったグラニュー糖を燐音くんが届く位置に置いておくと、随分素直なお返事だけが返ってくる。一つの作業をなんでも丁寧に真剣にやるのが得意なひとなので、集中している時は結構静かだし素直なのだ。
漢字の一を書くように卵白を切る。それをずっと続けている燐音くんの腕の動きはすっかり慣れた様子だった。腕の力を抜いて軽く泡立て器をボウルの中で振る、という一定の動作を繰り返している。
こちらから音を聞いている限り、そろそろボウルの中身は七分立てくらいになっているだろう。卵白を泡立てて『ツノが立つ』メレンゲを作ることは、適切なやり方と慣れさえあればそんなに時間がかからないものである。
追加で擦り下ろした梨を僕が鍋に入れている頃には、燐音くんは僕の言う通りツノの立つメレンゲを完成させていた。コン、と音を立ててカウンターにボウルを置く。
「あ~つっかれたァ」
わざとらしい声と共にカウンターにへばりつく燐音くんの顔には、大きく『不満です』と書かれているみたいだった。ボウルの横に肘をついて、むすくれた顔をしながら僕のことを睨んでいる。今更こんな量のメレンゲ作りで疲れるようなお坊ちゃんでもないだろうに。あんまりにもわざとらしすぎて、何か企んでいるのは明白だった。
「ニキきゅんよぉ、俺っちの作業料は高くつくぜェ」
「だからぁ、食べたいって言いだしたのは燐音くんでしょ! お代はカステラ払い!」
「俺っちピザも食いてェな~」
「じゃあ夜はマルゲリータでも作りますかね~」
僕の言葉に「よっしゃ」と小さくこぼした燐音くんの口元が、確認しなくたって小さく笑っているだろうことはわかっていた。
燐音くんはひとにたかってばかりのダメ人間だが、こうして素直に喜ばれると料理人としても悪い気はしないものだ。今もその視線は僕がかき混ぜる鍋の中に固定されている。
甘酸っぱい梨のジャムは、特別甘いものが好きというわけでもない燐音くんも結構お気に入りの逸品なのだ。久々に食べられるからか、その瞳にキラキラとした『期待』が乗っかっているのが妙に素直で面白い。
こうしていると弟さんとよく似ているな、と感じた。多分、弟さんもこのジャムを食べたら同じような水色の瞳をキラキラと輝かせてくれるのだろう。兄弟そろって同じ顔をして僕の料理を食べる様は想像するだけで面白い。それはそれで見てみたい景色だった。後で同室のひなたくんと弟さんにも持って行って食べさせてあげよう。
──この暴君と僕とで、今日作った分を全部食べ尽くしてしまわない限りは。
鍋の中で火を通された梨の具合も、もういい感じだった。甘い香りの中に、すっきりと香るレモンの匂い。今回はそこまで火を通す必要もないので、このジャムはこれで完成である。鍋の火を止めて、後はカステラを焼くだけだ。
燐音くんが泡立てたメレンゲを、レンジで少し温めた牛乳やサラダ油、それに蜂蜜をあらかじめ混ぜておいた卵黄に加えていく。切るように混ぜた乳白色のそれを型に入れて蒸し焼きにすれば、後はオーブンが仕上げてくれる。
これは、かつて燐音くんと一緒に過ごしたアパートで何度も作った台湾カステラのレシピだった。ふわふわでしっとりしたシフォンケーキみたいな生地で、くどくない甘さなのが燐音くんのお気に入り。今が旬の梨を果肉が軽く『くたっ』とするくらいに火を通してからカステラに添えると、素朴な味のカステラにも変化がついて食べやすい。
燐音くんに「カステラ」と言われて久々にこの味を思い出したら僕もどうしても食べたくなってしまって、全手動メレンゲ泡立て器である燐音くんを捕まえてこうして寮の共用部であるキッチンを占領していたのだった。
甘い匂いが漂うキッチンは居心地がいい。幸せな香りに包まれていると、ささくれだった気分なんかもどっかにいってしまうものだ。そんな幸せな香りは燐音くんにも効果があったのか、ずっとカウンターにへばりついたままの燐音くんが小さくあくびをした。「焼けるまで昼寝でもしようかねェ」なんて、僕に聞かせるつもりでもないような独り言も呟いている。
カステラなんて三十分くらいで焼けてしまうのに。僕が料理中に使ったお皿や道具を洗っていても気にせずカウンターに懐いている暴君は、メレンゲ作り以上にこちらを手伝うつもりはないらしい。別に構わない、と言えば構わないのだけど。これ以上こちらが要求すれば見返りに何を言われるか分かったものじゃない。
日向ぼっこをする猫のようにだらけてのんびりしている様は、かつてアパートで一緒に暮らしていた頃に見たような仕草で、ちょっと気の抜けた様が面白かったから許してあげようと思えたのもあった。
それに、こっちはカステラに合わせる珈琲の用意もしなくてはいけないのだ。
机に頬をくっつけてうとうとしている燐音くんは、この『カステラと珈琲』のセットが好きだから、カステラと強請った時点で珈琲も一緒に出てくることを期待しているに違いない。
ふわふわとした甘い匂いがキッチンを漂う。オーブンの中で膨らんできたカステラの匂いと、珈琲の香ばしい香り。いつかのアパートでのひと時のようなそれに包まれて、ぼんやりとした目で僕を見上げる燐音くんが嬉しそうに笑った。
まったくもう、寂しん坊なんだから。