寺田寅彦 导游

日语综合教程第七册第八课 导游

翻译:王志镐

作者介绍:寺田寅彦( 1878-1935 ),物理学家,随笔家,生于东京。笔名吉村冬彦、薮柑子等。东京大学教授。从事物理学,地球物理学,气象学,海洋学等的研究工作,师从夏目漱石,以《团栗》、《龙舌兰》等写生和小品文撩开了他新文风的面纱。主要随笔作品有《冬彦集》、《薮柑子集》、《万华镜》、《柿子的核》、《蒸发皿》、《触媒》、《橡子》等

有人要去哪里旅行,可又没有什么特定的目标。这时,翻开旅行手册的分类指南,那上面所罗列的旅游景点品目繁多,举不胜举。或海滨,或山间,或湖畔,或温泉。如决定去温泉,那么就先将温泉那部分稍稍仔细地浏览一下,对每个温泉的水质、疗效、周围的名胜古迹等有个粗略的了解。不过想要更详细地了解一些具体的事项,那就需要找专门介绍温泉的导游手册来读。这样一来,首先对所去的地方有了一个模模糊糊的大概方向。不过无论怎样把旅行指南读得烂熟,也必须亲自去走一趟,否则对旅游目的地终究不能了如指掌。不然,岂不成了“秀才不出门,便知天下事”?其次,为了慎重起见,可向许多人打听,不过因人而异,别人的话都是大相径庭,该信谁的好呢?结果弄得一头雾水。费尽心思作了调查,最后却马马虎虎地如同抓阄似的,凭偶然的机缘才勉强选定了目的地。

据说,这就是所谓学究式的正统做法。对于许多人来说,也是最安全的方法。这样做至少不用担心会产生多么大的失望和意料之外的失算,也不用挂虑会与主要的名胜古迹擦肩而过。

不过,也不是说没有其他可行的办法。比如,想要去旅行时,一开始就用抓阄的方法定下要去的地方,或者根据偶然读到的诗集、小说之中你所感兴趣的所在,来决定要去的地方。因此对旅行指南等不屑一顾,仅凭自己兴之所致,突然造访。眼之所见,足之所至,自由观赏,信步走去,走走看看,看看走走。然而此种方法容易引起各种失策和困难,还可能在所谓名胜古迹前过而不入,自己却浑然不知,这样的事情是很常见的。因此,这是一种充满危险的异端的做法,也是一种不便于糊里糊涂向一般人推荐的方法。

不过前一种方法也有其短处。读过的旅行指南,听过的别人的介绍,老是盘踞在脑海里,使我耳不聪,目不明。难得出来旅行,自己却好像是放在旅行箱中的一件玩偶,一味地根据旅行指南和别人的介绍,去泡温泉、看风景、还硬说自己享受了乐趣。照这个法子旅行,可真是太可怕了。当然,这也并非旅行指南和介绍人的错。

可是也有相当多的人说,这样旅游也无妨,对这样的人当然无话可说。

不过还有人以为,这种特意出来的旅游,没有快感。有人觉得,无论如何要用自己的眼去看,用自己的脚去走,当与所见之景色、所踏之大地直接融为一体时,自己才能有所感悟,否则便品味不到旅行中敏锐的感觉。这样的人动辄忽视旅行指南和别人的介绍,甚至特意回避。因为他们怕为了买回便利和安全而出卖了自己。这样的异端者,也许会错过大众之景观,但是取而代之的是,他们有机会发掘出旅行指南中未记载的好景观。

我曾与两三旧友结伴,去英国某离宫参观,当时其中一人的手中,始终拿着一本打开的旅行指南,一处一处对照着看,仔仔细细地参观。这本指南早就被做了一番调查,用红铅笔到处郑重其事地画了杠杠。进入某一间房间时,他就将大家召集到这间房间的窗前,指着指南书中的一行字告诉我们:“书上写着,从这个窗户看出去景色最好。”大家一边将信将疑,一边充分欣赏着这难能可贵,不可多见的景色。

我在钦佩这位学兄的学者派头和彻底的学究作风的同时,不禁感到一种难以名状的遗憾,或者说是一种虚幻无常和无可奈何的心情。不知为什么,觉得自己仿佛成了旅行指南的编辑者本人,在校正自己编辑的书。而那扇窗仿佛成了奇怪的束缚人的网,从我的头顶撒了下来。如果没有旅行指南,有关房间的历史和典故确实无从知晓,不过窗外的风景是好是坏,我总觉得应该由自己的眼睛来发现,允许人们有选择的自由。

当旅行指南尚未闻世时,出游的不方便可想而知;不过被新版旅行指南欺骗了的事情,也不可以说没有。有过这样的事:要去访问某都市的一所大学,却发现这里是一个政府机关;要想找一家著名的餐厅,却发现那里贴着出租房的告示。如果遇到杜撰的旅行指南,那么失败的教训更是可想而知。不过,要想求得一本在某种意义上是十全十美的旅行指南,本来就是难以办到的事情。一切困难的根源在于:我们以为真的有这样的书。

总而言之,如没有旅行指南不方便,有了也未必路路通。

上初中时,第一次去东都参观。去黑谷、金阁寺之类地方,有小僧做导游,为我们一一解说建筑的各个部分,以及秘藏宝物的种种来历。导游的口吻带有一种特别的音调,对于我这个乡巴佬学生来说,真是非常新奇。更使人感到奇怪的是:这种解说完全是刻板的,对于正在叙述的事情,完全没有情绪上的反应,解说者只不过发出留声机一样的声音,就如机器似的,使人觉得相当新奇。那时见过的宝物和屏风上的绘画等等,大概都已忘得干干净净,只有当时导游那种特别的口吻,空幻的表情,至今还历历在目,留在我的脑海里。

那时还遇到一件困惑的事情:比如说我对某件器皿或绘画特别感兴趣,想要多逗留片刻,慢慢参观,可是由于导游在全部物品前面平均分配时间,在行进过程中,如稍一打盹,队伍就快速往前走了,所以在此期间我必然会错过许多应该看的东西。即使自己对此不在乎,在参观完之后,同行的伙伴恰好谈起我所错过的东西时,还是难免会感到惋惜,气不打一处来。

根据学校教育和所谓的参考书给予的知识,与从旅行指南、著名风景区的导游那里得来的知识,在许多方面有相似之处。

如果没有像学校这样难得的设施,全凭独自研修,拨开现代文化所蕴藏的庞大知识之林,去追求什么东西,那谈何容易!我想,一定从头至尾都是迷雾重重,前途茫茫,只会白费功夫,结果落得个预定的目的地还未到,太阳却落山了的下场。

不过我无意在此重新开始考虑和讨论学校教育的必要性,只是想更深入地思考这样的事实:即接受学校教育,与被导游牵着手走何等相似!

旅行指南越是详细正确,我们对它的信赖就越是执着,我们就能安心走路,不走歧路,不枉费时间和力气,并安全地到达目的地。这是求之不得的事情。但与此同时,在旅行指南上没有标识的歧路上,隐藏着的宝贵的景点就没有机会被发现,这是毋庸置疑的。要减少这样的损失,须选择各种人选择的不同指南,互相参照为好。可问题在于,已有的旅行指南所记载的内容,大都是敷衍了事,七拼八凑制作而成的。与此相反,即使是错误百出的旅行指南,不论多少,只要是以著者的体验为材料写成的,倒有可能给人多多启示。

然而不管多么完全,指南终究还是指南。不管怎样反复阅读、暗记在心,毕竟不能代替旅行本身。

指南在系统上是否完备,与是否吸引读者的兴趣完全是两回事,相反,往往有互相矛盾的倾向。比起大家常说的旅行指南,一些优秀文学家写的自由纪行文章,以及一些敏锐的科学家写的不成熟的观察记录,虽然局限于其题材范围的狭窄,却流露出作者内心朝气蓬勃、活生生的体验,直接被读者铭记在心。即使有表述上的错误,作者还是单凭其求真的愿望,有力地打动了读者,在读者的心中引起一样的共鸣。这与记述的内容已无关系,唤起读者兴趣和爱好的,是被描写的那片土地本身。

专门的学术参考书中也有类似的情况。在就某一课题广泛地查阅有关文献的情况下,各种各样的百科全书、便览手册之类的书籍便成为不可或缺的宝贝;可是一旦想要作更深入的了解,这样的书籍便不起作用了,也就是说必须阅读每一篇原创的论文和专著。因此,如果从头到尾漫无目的地通读、暗记这些参考用的大部头著作,对毫无“课题”经验的学生来说,其收效甚微,倒有点吃力不讨好。而且要从那些书籍中选出课题,是可想而不可及的事情。与此相反,每一篇根据研究者的直接经验记述的论文和专著,无论其题材如何,其中都有某种活生生的变化着的东西,因此具有奇怪的魔力,受暗示的读者被诱使去自发地进行工作,并由此唤起了读者自身强烈的研究兴趣。从这个意义上来说,阅读与自己专业无关的课题的论文,绝非徒劳无益之举。

仅仅依靠旅行指南,将永远不能通过自己的眼睛去观察,可是如果完全无视旅行指南,则常常会迷路,甚至有掉入瀑布深潭或者火山口中之忧。这些都是明摆着的事情。虽然很多学生还是仅仅依靠教科书和笔记;可是在另一方面,也常常有一些发明家和发现者,忽视既有的现代科学,煞费苦心想出了好主意,而结果还是失败了。

名胜古迹的导游最让人头疼的是,明明看上去好像有一点儿余暇,却说“没空,先生!”说了这话就硬拽着客人走。然而虽然有时间的限制,可是满足游客的要求是理所当然的事情。因此一定要完全自己参观,只是一个人出游,就能改变这种情况,不过在这种时候,一定不要让那位导游来“麻烦”你才好。

可是在导游和向导之中,出于对自己权威的信念的维护,出于据此推断会表现出来的亲切态度,没有理由对每个旅行者自由的直接观赏加以限制。在旅行者有特别兴趣的对象前面至停留片刻,说这样的东西没有价值,不看了吧,这是多管闲事。在“拥挤”和“没有价值”都明显是“相对的”情况下,这种事情让人为难。正因为导游是善意的,就更加使人为难。虽然在这样的专门领域,行业越是窄小,见到的就越多,可是这是理所当然的事情。一览众山小,只因身在此山中。

另一方面,对导游而言,也非常有可能被所率领的团队旅客过分信赖而感到为难的情况。虽然游客忠实地跟随着是件好事,可是一旦他们连上厕所也跟随着,那就一定让导游感到很为难。

曾耳闻牛顿的光学阻碍了波动学说的普及,拉佩斯的权威阻碍了机械论的发达。也许在某种意义上,这是正确的。可是承担了全部责任的这些大权威,很可能在九泉之下还未瞑目呢!至少承担一半以上的责任,那么由于盲从他们的权威,他们一定想回到落后的学徒时代呢!近来在相对论的被发现之际,牛顿又被引为例证,他的绝对论屡次被作为讨论的对象。这是理所当然的事,而为了这个原因,将牛顿称为罪人,这就有点不公平了。

如此想来,作为导游和游客都不容易。一切困难归根结底在于:人们会很容易地忘记“导游终究只是导游”这个显而易见的道理。

做旅游风景区的导游和做科学知识的导游都会遇到这样的困难。那么做与此不同的各种精神方面的导游又会如何呢?他们也许会有更大的困难,也许会根据不同的情况而变得很简单。因为这其中被掺入了“信仰”和“爱情”这样的因素。不过这样的话,就不是我在这里所说的“导游”了,而已变成了“导师”,变成了“朋友”。若被导师和朋友忽悠了,在旷野中迷了路,该不会怨天怨人吧?

(大正十一年一月修改)

案内者

寺田寅彦

 どこかへ旅行がしてみたくなる。しかし別にどこというきまったあてがない。そういう時に旅行案内記の類をあけて見ると、あるいは海浜、あるいは山間の湖水、あるいは温泉といったように、行くべき所がさまざま有りすぎるほどある。そこでまずかりに温泉なら温泉ときめて、温泉の部を少し詳しく見て行くと、各温泉の水質や効能、周囲の形勝名所旧跡などのだいたいがざっとわかる。しかしもう少し詳しく具体的の事が知りたくなって、今度は温泉専門の案内書を捜し出して読んでみる。そうするとまずぼんやりとおおよその見当がついて来るが、いくら詳細な案内記を丁寧に読んでみたところで、結局ほんとうのところは自分で行って見なければわかるはずはない。もしもそれがわかるようならば、うちで書物だけ読んでいればわざわざ出かける必要はないと言ってもいい。次には念のためにいろいろの人の話を聞いてみても、人によってかなり言う事がちがっていて、だれのオーソリティを信じていいかわからなくなってしまう。それでさんざんに調べた最後には、つまりいいかげんに、賽さいでも投げると同じような偶然な機縁によって目的の地をどうにかきめるほかはない。

 こういうやり方は言わばアカデミックなオーソドックスなやり方であると言われる。これは多くの人々にとって最も安全な方法であって、こうすればめったに大きな失望やとんでもない違算を生ずる心配が少ない。そうして主要な名所旧跡をうっかり見落とす気づかいもない。

 しかしこれとちがったやり方もないではない。たとえば旅行がしたくなると同時に最初から賽をふって行く所をきめてしまう。あるいは偶然に読んだ詩編か小説かの中である感興に打たれたような場所に決めてしまう。そうして案内記などにはてんでかまわないで飛び出して行く。そうして自分の足と目で自由に気に向くままに歩き回り見て回る。この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事のできかねるやり方である。

 しかし前の安全な方法にも短所はある。読んだ案内書や聞いた人の話が、いつまでも頭の中に巣をくっていて、それが自分の目を隠し耳をおおう。それがためにせっかくわざわざ出かけて来た自分自身は言わば行李こうりの中にでも押しこめられたような形になり、結局案内記や話した人が湯にはいったり見物したり享楽したりすると同じような事になる、こういうふうになりたがる恐れがある。もちろんこれは案内書や教えた人の罪ではない。

 しかしそれでも結構であるという人がずいぶんある。そういう人はもちろんそれでよい。

 しかしそれでは、わざわざ出て来たかいがないと考える人もある。曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り出す機会がある。

 私が昔二三人連れで英国の某離宮を見物に行った時に、その中のある一人は、始終片手に開いたベデカを離さず、一室一室これと引き合わせては詳細に見物していた。そのベデカはちゃんと一度下調べをしてところどころ赤鉛筆で丁寧にアンダーラインがしてあった。ある室へ来た時にそこのある窓の前にみんなを呼び集め、ベデカの中の一行をさしながら、「この窓から見ると景色がいいと書いてある」と言って聞かせた。一同はそうかと思って、この見のがしてならない景色を充分に観賞する事ができた。

 私はこの人の学者らしい徹底したアカデミックなしかたに感心すると同時に、なんだかそこに名状のできない物足りなさあるいは一種のはかなさとでもいったような心持ちがするのを禁ずる事ができなかった。なんだかこれでは自分がベデカの編者それ自身になってその校正でもしているような気がし、そしてその窓が不思議なこだわりの網を私のあたまの上に投げかけるように思われて来た。室に付随した歴史や故実などはベデカによらなければ全くわからないが、窓のながめのよしあしぐらいは自分の目で見つけ出し選択する自由を許してもらいたいような気もした。

 ベデカというものがなかった時の不自由は想像のほかであろうが、しかしまれには最新刊のベデカにだまされる事もまるでないではない。ある都の大学を尋ねて行ったらそこが何かの役所になっていたり、名高い料理屋を捜しあてると貸し家札が張ってあったりした事もある。杜撰ずざんな案内記ででもあればそういう失敗はなおさらの事である。しかし、こういう意味で完全な案内記を求めるのは元来無理な事でなければならない。そういうものがあると思うのが困難のもとであろう。

 それで結局案内記がなくても困るが、あって困る場合もないとは限らない。

 中学時代に始めての京都見物に行った事がある。黒谷くろだにとか金閣寺きんかくじとかいう所へ行くと、案内の小僧さんが建築の各部分の什物じゅうもつの品々の来歴などを一々説明してくれる。その一種特別な節をつけた口調も田舎者いなかものの私には珍しかったが、それよりも、その説明がいかにも機械的で、言っている事がらに対する情緒の反応が全くなくて、説明者が単にきまっただけの声を出す器械かなんぞのように思われるのがよほど珍しく不思議に感ぜられた。その時に見た宝物や襖ふすまの絵などはもう大概きれいに忘れてしまっているが、その時の案内者の一種の口調と空虚な表情とだけは今でも頭の底にありありと残っている。

 その時に一つ困った事は、私がたとえばある器物か絵かに特別の興味を感じて、それをもう少し詳しくゆっくり見たいと思っても、案内者はすべての品物に平等な時間を割り当てて進行して行くのだから、うっかりしているとその間にずんずんさきへ行ってしまって、その間に私はたくさんの見るべき物を見のがしてしまわなければならない事になる。それはかまわないつもりでいてもそこを見て後に、同行者の間でちょうど自分の見落としたいいものについての話題が持ち上がった時に、なんだか少し惜しい事をしたという気の起こるのは免れ難かった。

 学校教育やいわゆる参考書によって授けられる知識は、いろいろの点で旅行案内記や、名所の案内者から得る知識に似たところがある。

 もし学校のようなありがたい施設がなくて、そしてただ全くの独学で現代文化の蔵している広大な知識の林に分け入り何物かを求めようとするのであったら、その困難はどんなものであろうか。始めから終わりまで道に迷い通しに迷って、無用な労力を浪費するばかりで、結局目的地の見当もつかずに日が暮れてしまうのがおちであろうと思われる。

 しかし学校教育の必要といったような事を今さら新しくここで考え論じてみようというのではない。ただ学校教育を受けるという事が、ちょうど案内者に手を引かれて歩くとよく似ているという事をもう少し立ち入って考えてみたいだけである。

 案内記が詳密で正確であればあるほど、これに対する信頼の念が厚ければ厚いほど、われわれは安心して岐路に迷う事なしに最少限の時間と労力を費やして安全に目的地に到着することができる。これに増すありがたい事はない。しかしそれと同時についその案内記に誌しるしてない横道に隠れた貴重なものを見のがしてしまう機会ははなはだ多いに相違ない。そういう損失をなるべく少なくするには、やはりいろいろの人の選んだいろいろの案内記をひろく参照するといい。ただ困るのは、すでに在ある案内記の内容をそのままにいいかげんに継ぎ合わせてこしらえたような案内記の多い事である。これに反して、むしろ間違いだらけの案内記でも、それが多少でも著者の体験を材料にしたものである場合には、存外何かの参考になる事が多い。

 しかしいくら完全でも結局案内記である。いくら読んでも暗唱しても、それだけでは旅行した代わりにはならない事はもちろんである。

 案内記が系統的に完備しているという事と、それが読む人の感興をひくという事とは全然別な事で、むしろ往々相容あいいれないような傾向がある。いわゆる案内記の無味乾燥なのに反してすぐれた文学者の自由な紀行文やあるいは鋭い科学者のまとまらない観察記は、それがいかに狭い範囲の題材に限られていても、その中に躍動している生きた体験から流露するあるものは、直接に読者の胸にしみ込む、そしてたとえそれが間違っている場合でさえも、書いた人の真を求める魂だけは力強く読者に訴え、読者自身の胸裏にある同じようなものに火をつける。そうして誌しるされた内容とは無関係にそこに取り扱われている土地その物に対する興味と愛着を呼び起こす。

 専門の学術の参考書でもよく似た事がある。何かある題目に関して広く文献を調べようという場合にはいろいろなエンチクロペディやハンドブーフという種類のものはなくてならない重宝なものであるが、少し立ち入ってほんとうの事が知りたくなればもうそんなものは役に立たない。つまりは個々のオリジナルの論文や著書を見なければならない。それでこのような参照用の大部なものを、骨折って始めから終わりまで漫然と読み通し暗唱したところで、すでになんらかの「題目」を持っていない学生にとってはきわめて効果の薄い骨折り損になりやすいものである。またこんなものから題目を選み出すという事も、できそうでできないものである。これに反して個々の研究者の直接の体験を記述した論文や著書には、たとえその題材が何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受ける暗示は読む人の自発的な活動を誘発するある不思議な魔力をもっている。そうして読者自身の研究心を強く喚よびさます。こういう意味からでも、自分の専門以外の題目に関するいい論文などを読むのは決して無益な事ではない。

 それで案内記ばかりにたよっていてはいつまでも自分の目はあかないが、そうかと言ってまるで案内記を無視していると、時々道に迷ったり、事によると滝つぼや火口に落ちる恐れがある。これはわかりきった事であるが。それにかかわらず教科書とノートばかりをたよりにする学生がかなり多数である一方には、また現代既成の科学を無視したために、せっかくいい考えはもちながら結局失敗する発明家や発見者も時々出て来る。

 名所旧跡の案内者のいちばん困るのは何か少しよけいなものを見ようとすると No time, Sir ! などと言って引っ立てる事である。しかしこれも時間の制限があってみれば無理もない事である。それでほんとうに自分で見物するには、もう一ぺんひとりで出直さなければならない事になる、ただその時に、例の案内者が「邪魔」をしてくれさえしなければいい。

 しかし案内者や先達せんだつの中には、自己のオーソリティに対する信念から割り出された親切から個々の旅行者の自由な観照を抑制する者もないとは言われない。旅行者が特別な興味をもつ対象の前にしばらく歩を止めようとするのを、そんなものはつまらないから見るのじゃないと世話をやく場合もある。つまるとつまらないとが明らかに「相対的」のものである場合にはこれは困る。案内者が善意であるだけにいっそう困るわけである。この種の案内者はその専門の領域が狭ければ狭いほど多いように見えるが、これは無理もない事である。自分の「お山」以外のものは皆つまらなく見えるからである。

 一方で案内者のほうから言うと、その率いている被案内者からあまりに信頼されすぎて困る場合もずいぶんありうる。どこまでも忠実に付従して来るはいいとしても、まさかに手洗い所までものそのそついて来られては迷惑を感じるに相違ない。

 ニュートンの光学が波動説の普及を妨げたとか、ラプラスの権威が熱の機械論の発達に邪魔になったとかという事はよく耳にする事である。ある意味では確かにそうかもしれない。しかしこの全責任を負わされてはこれらの大家たちはおそらく泉下に瞑めいする事ができまい。少なくも責任の半分以上は彼らのオーソリティに盲従した後進の学徒に帰せなければなるまい。近ごろ相対原理の発見に際してまたまたニュートンが引き合いに出され、彼の絶対論がしばしば俎まないたの上に載せられている。これは当然の事としても、それがためにニュートンを罪人呼ばわりするのはあまりに不公平である。罪人はもっともっとほかにたくさんある。言わばニュートンは真理の殿堂の第一の扉とびらを開いただけで逝ゆいてしまった。彼の被案内者は第一室の壮麗に酔わされてその奥に第二室のある事を考えるものはまれであった。つい、近ごろにアインシュタインが突然第二の扉を蹴開けひらいてそこに玲瓏れいろうたる幾何学的宇宙の宮殿を発見した。しかし第一の扉を通過しないで第二の扉に達し得られたかどうかは疑問である。

 この次の第三の扉はどこにあるだろう。これはわれわれには全然予想もつかない。しかしその未知の扉とびらにぶつかってこれを開く人があるとすれば、その人はやはり案内者などのやっかいにならない風来の田舎者いなかものでなければならない。第三の扉の事はいかに権威ある案内記にも誌しるしてないのである。

 思うにうっかり案内者などになるのは考えものである。黒谷や金閣寺の案内の小僧でも、始めてあの建築や古器物に接した時にはおそらくさまざまな深い感興に動かされたに相違ない。それが毎日同じ事を繰り返している間にあらゆる興味は蒸発してしまって、すっかり口上を暗記するころには、品物自身はもう頭の中から消えてなくなる。残るものはただ「言葉」だけになる。目はその言葉におおわれて「物」を見なくなる。そうして丹波たんばの山奥から出て来た観覧者の目に映るような美しい影像はもう再び認める時はなくなってしまう。これは実にその人にとっては取り返しのつかない損失でなければならない。

 このような人は単に自分の担任の建築や美術品のみならず、他の同種のものに対しても無感覚になる恐れがある。たとえばよその寺で狩野永徳かのうえいとくの筆を見せられた時に「狩野永徳の筆」という声が直ちにこの人の目をおおい隠して、眼前の絵の代わりに自分の頭の中に沈着して黴かびのはえた自分の寺の絵の像のみが照らし出される。たとえその頭の中の絵がいかに立派でもこれでは困る。手を触れるものがみんな黄金になるのでは飢え死にするほかはない。

 職業的案内者がこのような不幸な境界に陥らぬためには絶えざる努力が必要である。自分の日々説明している物を絶えず新しい目で見直して二日に一度あるいは一月に一度でも何かしら今まで見いださなかった新しいものを見いだす事が必要である。それにはもちろん異常な努力が必要であるが、そういう努力は苦しい。それをしなくても今日には困らない。そこに案内者のはまりやすい「洞窟どうくつ」がある。

 ニュールンベルグの古城で、そこに収集された昔の物すごい刑具の類を見物した事がある。名高い「鉄の処女アイゼルネユングフラウ」の前で説明をしていた案内者はまだうら若い女であった。いったいに病身らしくて顔色も悪く、なんとなく陰気な容貌ようぼうをしていた。見物人中の学生ふうの男が「失礼ですが、貴嬢は毎日なんべんとなく、そんな恐ろしい事がらを口にしている、それで神経をいためるような事はありませんか」と聞くと、なんとも返事しないでただ音を立てて息を吸い込んで、暗い顔をして目を伏せた。私はずいぶん残酷な質問をするものだと思ってあまりいい気持ちはしなかった。おそらくこの女も毎日自分の繰り返している言葉の内容にはとうに無感覚になっていたのだろう。それがこの無遠慮な男の質問で始めて忘れていた内容の恐ろしさと、それを繰り返す自分の職業の不快さを思い出させられたのではあるまいか。

 これと場合はちがうが、われわれは子供などに科学上の知識を教えている時にしばしば自分がなんの気もつかずに言っている常套じょうとうの事がらの奥の深みに隠れたあるものを指摘されて、職業科学者の弱点をきわどく射通される思いがする事はないでもない。

 案内者になる人はよほど気をつけねばならないと思う。

 ナポリを見物に行ったついでに、ほど遠からぬポツオリの旧火口とその中にある噴気口を見に行った。電車をおりてベデカをたよりに尋ねて行こうとすると、すぐに一人の案内者が追いすがって来てしきりにすすめる。まだ三十にならないかと思われるあまり人相のよくない男である。てんで相手にしないつもりでいたがどこまでも根気よくついて来て、そして息を切らせながらしつこく同じ事を繰り返している。それをしかりつけるだけの勇気のない私は、結局そのうるささを免れる唯一の方法として彼の意に従うほかはなかった。その結果は予想のとおりはなはだ悪かった。始め定めた案内料のほかに、いろいろの口実で少しずつ金を取り上げられて、そして案内者を雇っただけの効能はほとんどなかった。ただ一つのおもしろかったのは、麻糸か何かの束を黄蝋きろうで固めた松明たいまつを買わされて持って行ったが、噴気口のそばへ来ると、案内者はそれに点火して穴の上で振り回した。そして「蒸気の噴出が増したから見ろ」と言うのだが、私にはいっこうなんの変わりもないように思われた。すると彼はそことはだいぶ離れた後方の火口壁のところどころに立ち上る蒸気をさして「あのとおりだ」という。しかし松明を振る前にはそれが出ていなかったのか、またどれくらい出ていたのか、まるで私は知らなかったのだから、結局この松明たいまつの実験エキスペリメントは全然無意味なものに終わってしまった。しかしそういう飛びはなれた非科学的の「実験」がおそらく毎日ここで行なわれてそして見物人の幾割かはそれで納得するものだとすると、そういう事自身がかなり興味のある事だと思われた。

 知識の案内者と呼ばれ、権威オーソリティと呼ばれる人にはさすがにこんな人は無いはずである。それでは被案内者が承知しない。しかし名を科学に借りて専門知識のない一般公衆の目をくらますような非科学的実験を行なった者が西洋には昔からずいぶんあった。そのような場合には、ほとんどきまって、平生科学に対して反感のようなものをもっている一群の公衆、ことに新聞などによって既成科学の権威が疑われ、そのような「発見」に冷淡な学者が攻撃される。しかし科学者としては事がらの可能不可能や蓋然性がいぜんせいの多少を既成科学の系統に照らして妥当に判断を下すほかはないので、もし万に一つその判断がはずれれば、それは真に新しい発見であって科学はそのために著しい進歩をする。しかしそのような場合があっても、判断がはずれた事は必ずしもその科学者の科学者としての恥辱にはならない。その場合には要するに科学が一歩を進めたという事になる。そういうふうにして進歩するのが科学ではあるまいか。むしろ見当のはずれるほうが科学者として妥当である場合がないでもない。

 このような場合は別として、純粋なまじめな科学者でも、やはり人間である限り千慮の一失がないとは限らない。そして知らず知らずにポツオリの松明たいまつに類した実験や理論を人に示さないとは限らない。

 グラハムが発電機を作った時に当時の大家某は一論文を書いて、そのような事が不可能だという「証明」をした。それにかかわらずグラハムの器械からは電流が遠慮なく流出した。その後にこの器械から電流の生ずるというほうの証明がだんだん現われて来たという話を何かで読んだ事がある。しかしその大家の論文をよく読んでみなければうっかりその人の非難はできない。

 ヘルムホルツが「人間が鳥と同じようにして空を翔かける事はできない」と言ったのに、現に飛行機ができたではないかという人があらばそれは見当ちがいの弁難である。現在でも将来でも鳥のように翼を自分の力で動かして、ただそれだけで鳥のように翔ける事はできはしない。

 すべての案内者も時々これに類した誤解から起こる非難を受ける恐れのある事を覚悟しなければならない。たとえば、案内者が「この川を渡る橋がない」という意味で、渡れないと言ったのを船で渡っておいて「このとおり渡れるではないか」と言われるのはどうもしかたがない。これらはおそらくどちらも悪いかどちらも悪くないかである。意志が疏通しないから起こる誤解である。

 しかしあらゆる誤解を予想してこれに備える事は神様でなければむつかしい。ここにも案内者と被案内者の困難がある。

 私のやっかいになったポツオリの案内者は別れぎわにさらに余分の酒代をねだって気長く付きまとって来た。それを我慢して相手にしないでいたら、最後の捨て言葉に「日本人はもっとゼントルマンかと思った」と言うから、私も「イタリア人はもっとゼントルマンかと思った」と答えて、それきり永久に別れてしまった。私も少し悪かったようである。しかしこんなのはさすがに知識の案内者にはない。

 考えてみると案内者になるのも被案内者になるのもなかなか容易ではない。すべての困難は「案内者は結局案内者である」という自明的な道理を忘れやすいから起こるのではあるまいか。

 景色や科学的知識の案内ではこのような困難がある。もっとちがったいろいろの精神的方面ではどんなものであろうか。こっちにはさらにはなはだしい困難があるかもしれないが、あるいは事によるとかえって事がらが簡単になるかもしれない。そこには「信仰」や「愛情」のようなものが入り込んで来るからである。しかしそうなるともう私がここに言っているただの「案内者」ではなくなってそれは「師」となり「友」となる。師や友に導かれて誤って曠野こうやの道に迷っても怨うらみはないはずではあるまいか。

(大正十一年一月、改造)

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