关于幸田文

日本网友对幸田文的评论摘抄:

(一)

不过,提起幸田文,即使不说也知道是幸田露伴的亲生女儿。露伴先生的回忆录《浮云》,是我非常喜欢的一篇随笔,先前提到的《树》这本书中,收录了《藤》这篇作品,写了绝妙的一段趣闻。

ところで、幸田文さんといえば、言わずと知れた幸田露伴さんの実の娘さんです。露伴さんの回想記である『ちぎれ雲』は、大好きな随筆のひとつなのですが、先に触れた『木』に収められている『藤』という作品にも、とても素敵なエピソードが書かれています。

有一天,露伴先生对文说:“在城市里成大的孩子,让他们看一看庙会的植物,关心一下草木,虽然微不足道,但也是一种手段。”让文带女儿去看庙会。临出门,露伴先生将小钱包递给了文,说:“去买女儿喜欢的花吧!”来到了庙会,天真烂漫的女儿小玉缠着母亲要买一盆几乎与文的身体一样高的价钱不菲的藤花。小钱包里的钱不是远远不足以买这盆藤花吗,文与她合计了一下,结果给小玉买了山椒树。

ある日、文さんは、露伴さんに「町に育つおさないものには、縁日の植木をみせておくのも、草木へ関心をもたせる、かぼそいながらの一手段だ」と言われて、娘の玉さんを縁日に連れていきます。出かけに露伴さんは、「娘の好む木でも花でも買ってやれ」と言って、文さんにがま口を渡します。縁日に行くと、幼い玉さんは無邪気に、文さんの身長ほどもある、高価な藤の鉢植えをねだります。とてもじゃないががま口のお金で買える代物ではなかったので、文さんはそれを諦めさせて、結局玉さんは山椒の木を買います。

回到家里,走出书房的露伴先生听说了这件事情,转眼间就不高兴了。他说小玉选择藤花是对的。他严肃地说“选择市场上最好的花,说明她对赏花有准确的眼光,为什么不顺应这种眼光呢?当然应当买藤花。”对文的反驳,露伴先生有条有理理由充足地进行回答。因为十分有趣,特引用如下:

家に帰ると、書斎から出てきて話を聞いた露伴さんは、みるみる不機嫌になります。玉さんの藤の選択は間違っていないというのです。「市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目を持っていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに」とマジギレです。文さんが反論すると、露伴さんは理路整然とさらに百倍ぐらい言い返します。ちょっと面白いので引用すると:

喜欢的草或是树,尽管买来,父亲吩咐过自己,所以还特意将自己用的小钱包给了自己。孩子选择了藤花,可是为什么不买呢?如果钱不够,将小钱包的钱作为定金不就够了吗?你将父亲的吩咐、孩子的特别选择都不当回事,满不在乎,内心是多么浅薄啊!而且,到底用什么做标准来决定价格呢?即使买东西以出多少钱来决定,可是买这盆藤花是为了培养孩子的情趣,为什么我没想到呢?以藤花为开端,用任何花都可以教育孩子懂得珍惜,成为这个孩子一生的情趣,成为女儿眼中一生的感情,如果有更深的机缘,孩子关注的目光可以从藤花延伸到鸢尾,从鸢尾延伸到红叶,延伸到松树杉树,永无止境。这么一来,就如同给了这个孩子财产,而且比这价值更高。正在抚养孩子过程中的父母谁都会想到的是,怎样才能使孩子在身体和心灵上都得到良好的培养,这就是他们所想的。你这样的处置,是以金钱为重,而不考虑孩子心灵的培养,不能不说是令人吃惊的。

露伴先生说的是肺腑之言,可是对每个人都这么说的话,就一定会被回绝。

好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡してやった、子は藤を選んだ、だのになぜ買ってやらないのか、金が足りないのなら、がま口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差しにして、価値を決めているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の目をのばさないとはかぎらない、そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるのか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない

露伴さん、とても良いことを言っているのですが、こんなぐちぐちと言われたら、とりあえず蹴るでしょう。

据说,理解谷崎润一郎、幸田露伴需要100年。我对此简直不能理解,知道这件事后,为了多少使心灵受到良好的培养,我想继续阅读露伴先生的一生。

因此,我在很长时间内将文的故事作为“精彩的文章”来阅读。很长时间的恍惚。

谷崎潤一郎、幸田露伴が理解されるには100年はかかるだろうと言っていたと言います。ぼくは、ぜんぜん理解できていないことを承知の上で、少しでも心に良い養いをつけるために、露伴さんを一生読み続けたいと思っています。

それから、ぼくはとても長い間アヤさんのことを「こうだふみ」と読んでいました。気の遠くなるくらい長い間。

“此花不在秋天开放,甚是幸运。风冷钟声清,远望江村,秋日黄昏,云漏薄日,此花若并列开放,我必将在其树阴下倒伏而死。牛虻声诉说天地之活力,温柔轻风,吹皱衣袖,当人们魂魄被引诱入熟睡之乡,若见此花,我心漂浮在空中,不着天,不着地,游荡于不思万物之无有境界。”

摘自幸田露伴《花儿朵朵》中“紫藤”一节。

これの秋咲くものならぬこそ幸なれ。風冷えて鐘の音も清み渡る江村の秋の夕など、雲漏る薄き日ざしに此花の咲くものならんには、我必ずや其蔭に倒れ伏して死もすべし。虻の声は天地の活気を語り、風の温く軟きが袂軽き衣を吹き皺めて、人々の魂魄を快き睡りの郷に誘はんとする時にだも、此花を見れば我が心は天にもつかず地にもつかぬ空に漂ひて、物を思ふにも無く思はぬにも無き境に遊ぶなり。

幸田露伴『花のいろいろ』の中『紫藤』の項より

2021.4.19.

你可能感兴趣的:(关于幸田文)