第一章 特ダネ、抜かれまして(4)
麗らか(うららか)な春の午後の日差しが店内の観葉植物(かんようしょくぶつ)の葉を透かしている。窓の外に広がる隅田川の穏やかな流れは安らぎを運び、心地よい春風(しゅんぷう)は圭介の心のさざなみを凪(なぎ)へと変えつつあった。
まさに至福(しふく)のひととき──。圭介は今、メロンパンを頬張り(ほおばり)ながら、ホットコーヒーを片手に一息ついている。優しい陽光が包まれながら、今にも光合成(こうごうせい)でも始めそうな心境だった。
シャインの特ダネを盛大に抜かれた翌日のことである。まもなく十四時になる。
記者は自分だけの隠れたオフィスを持っている。本社は居心地が悪い上、仕事を振られるリスクがあり、カフェなどの方が仕事は捗る。圭介にとってのサテライトオフィスはここだった。
店名は「ベーカリーカフェバー・シャイン」。そう、なんの因果か、この店はあのシャインの運営する店舗である。
一年ほど前、理不尽なことでデスクから詰められた日のこと。本社を出て、八重洲通りをひたすら東に向かい、隅田川に行き着いた。そして、このカフェに出会ったのだ。
広々とした店内は元々、ピザ店だった名残(なごり)を多く残し 窯(かま)もある。今はパン窯に転用されていて、パン独特の芳醇(ほうじゅん)な甘い香りとコーヒーが煉瓦造り(れんがづくり)の店内に漂っている。昼はカフェで、夜はバーが開かれている店もベーカリーとしては珍しい。そして何よりも──。
「きょうは疲れてるなぁ、深堀はん。はい、これサービス」
焼きたてのパンが空いたお皿に置かれる。
コックコートにエプロン、コック帽を目深に被った若い女性が、いつもの朗らか(ほがらか)な笑みで圭介に話しかけてくる。
──そこまで年齢は離れていないが、おそらくは三十代前後だろう。
胸につけたネームプレートには<店長>の肩書き。そして、名前の欄には<角谷>とある。
「うわぁ、角谷《かくたに》さん、いいんですか?」
「もちろん!」
角谷は白い歯を見せてにっこり笑う。
「いつも来てもろーとるかんね。試作品やけど、食べてみて」
「今日は何の試作品ですかぁ?」
「ミソパンです」
「ミ、ミソパン?」
「一応訂正するけど、ミソパンって、アレじゃないからね。和歌山の金山寺味噌《きんざんじみそ》をベースに作った新作パンよ。コーヒーに合うかなって思って」
そう言って、圭介のカップに熱々のコーヒーを注ぐ。一杯のコーヒーを頼めば、何杯でもおかわり自由なのも嬉しい。
「じゃあ、遠慮なくいただきますぅ!」
圭介はパンを頬張る。
味噌の香りが鼻を突き抜ける。もっちりとした生地の食感(しょっかん)、甘いタレと濃厚な味噌が見事に融合していた。
──この味。どのパンを選んでも外れがない。
無類のパン好きの圭介を唸らせるほどの味が圭介をこの店に誘《いざな》うのだ。
「めっちゃ美味しいですぅ!」
じんわり涙が浮かぶ。圭介の声がランチタイムを過ぎて閑散としている店内に響いた。
「ほんなら、良かったわぁ」
角谷が菩薩のような笑みで応じる。
「うん、コーヒーとも合いますね。ああ、角谷さんが僕の上司だったら良いのになぁ」
傷心の体に沁み渡るような味に思わず本音がこぼれる。
「あら、新聞社って、そんなに悪い上司がいてるの?」
角谷が笑いながら問う。
「本当に悪い奴ばっかですよ︎ アウトレイジの世界です︎」
膨れっ面(ふくれっつら)で話す圭介を尻目(しりめ)に角谷がケラケラと笑った。
その瞬間、圭介の脳裏(のうり)にここに来るまでの苦い記憶が蘇った
──前日の特ダネを抜かれるという失態をなんとしても挽回(ばんかい)する。
その思いで、今日、圭介は朝から精力的に動いた。
最近は新聞社も懐事情も厳しくなり、経費にうるさい。なので、朝回りには電車で向かった。
シャイン本社で数時間、張ったが星崎は現れず空振り。
──落胆(らくたん)している暇はない。動き続けろ!
九時に 切り上げて、JR山手線に飛び乗る。それから五反田駅近くの輝川誠宅を訪れた。
驚くほどの豪邸だった。
──土地と建物で一体いくらするのだろうか?
さすが創業家。圧倒されるばかりだった。
「アサボリ、すぐに本社に上がれ!」
だが、十時過ぎ、青木から電話で唐突(とうとつ)な帰還命令が下された。
張り込み始めて三十分ほどでの撤退だ。
<新担当の深堀です。ご挨拶に伺いました>
名刺に書き込んで、輝川邸の郵便ポストに投函(とうかん)し、現場を後にする。
朝食を取る時間すらなく、青木から指定された本社二十階の編集フロアに上がった。
企業部の島に着くと、顔を上気(じようき)させた部長の谷がいきなり吠えた。
「今回の件、局長はカンカンだぞ!」
局長とは、編集局長の堂本烈任《どうもと・たけと》のことである。谷の前任の企業部長で東経出身。編集局のトップに君臨(くんりん)する男である。
谷と堂本は都立日比谷高校出身で、社内では「日比谷ライン」と称される強固な主従(しゅじゅう)関係を築いている。その堂本が今回の深堀の特ダネ抜かれについて、相当お怒りらしい。
「深堀、お前、今日までどんな取材していたんだよ!」
──どんな取材も何も、まだ担当して二週間です。挨拶すら、僕は行っていなかったんですよ?
胸を張って、そんなことを大っぴら(おおっっぴら)に言いたいくらい、何もしていなかった。何もしないうちに失点し窮地に立たされているのだ。
だが、当然言えるはずもなく、圭介は耐えることしかできない。
「本当に俺にしたら貰い事故(もらいじこ)だよ。こんなことで局長からも怒られてさ」
どうやら谷も相当に堂本から詰められたらしい。その腹いせ(はらいせ)に元凶を作った圭介を急遽呼びつけ、叱りつけているのだ。
その行為は、編集フロアの他の部の幹部に自らの非ではないことを示す儀式のようでもあった。それほどまでに編集フロア中に響いた。
ひとしきり圭介を詰めると、谷は満足したのか、大きく嘆息(たんそく)してから告げる。
「お前は今から顛末書(てんまつしょ)を作成して、青木に見せろ。十二時までに俺に提出な。良いな?」
フロアの柱時計に目をやる。もう十一時半である。気付けば、ここに来てから一時間も詰められていた。
──いや、それよりも……顛末書の締切まで、あと三十分もないじゃないか。シャインの件で、ただでさえ時間が惜しいのに。
取材ではなく、こんなことに時間が割かれる(さかれる)ことに不条理(ふじょうり)を感じていた。
解放されると、すぐにネットで書き方を検索(けんさく)して、慣れない万年筆で一筆。十二時まであと十分というところで、十八階フロアの企業部デスク席にいる青木に提出した。だが──。
手渡した瞬間、ビリビリに破かれる(やぶかれる)。
「テメー、アサボリ! これは《《始末書》》だ! 谷部長はテメーに『《《顛末書》》を書け!』って言ったんだ! どうしてネタを抜かれたのか、ことの顛末を報告しろって言ってんだ。テメー、顛末書も知らねーのか!」
始末書や顛末書もこれまで書いたことはない。
──それはむしろ褒めるべきではないのか?
そんなことを思いながらも謝罪する。
「もう良い! 俺が書く!」
そう言って、青木はキーボードを感情そのままに乱暴に叩く。鬼の形相(おにのぎょうそう)で顛末書をあっという間に完成させた。
その後、無事に? 二十階の谷に顛末書の提出をし終えると、圭介は十八階に急いで戻る。実は先ほど、青木に顛末書の件で面罵(めんば)されていた時、ある人物が出勤してきたのを目の端(めのはし)で捉えていたからだ。
「茂木さん、ちょっと宜しいでしょうか?」
無論、話しかけたのは前任の茂木である。その隣には翠玲が座っており、何とも本題を切り出しづらかったが、問わない訳にはいかない。
「どうしたんや、深堀君?」
茂木はくるりとオフィスチェアを回転させ、直立(ちょくりつ)した圭介を見上げる。照準を合わせるように元々細い目をさらに細めた。
──どうしたじゃない。結局、昨日は一度も電話に出てくれなかったじゃないか!
湧き上がる怒りを必死に抑えて、圭介は問う。
「シャインの役員の連絡先やヤサなど知っている情報があれば教えていただけませんか?」
「シャイン……?」
キョトンとした後、ハイハイと言った感じで頷く。それから、口の端の一方を歪に(いびつ)上げて、茂木は返す。
「ああ、ウィレットに盛大に抜かれたやつな」
──わざと周りに聞こえるように復唱している?
圭介は下唇(かしん)を噛む。
「引き継ぎのヤサが輝川誠前社長だけだったもので……それに、シャインへの連絡先も代表番号でした」
──皮肉の一つでも言わなきゃやってられない。
「だけって、社長のヤサが引き継ぎがれるだけで十分やろ?」
「そうかもしれません。ですが、僕は担当してからまだ二週間なんです。しかもシャインには挨拶にも行けていない状況でした……それに『困ったことがあったら何でも聞いてほしい』とおっしゃったのは茂木さんではないですか?」
語気(ごき)が強まる。
「深堀君さ……」
茂木は大きなため息を吐いて、呆れたと言わんばかりに肩をすくめる。
「俺らは企業部は経済記者なんやで。担当して二週間やろが、他社に特ダネ抜かれれば負けや。毎経の記者なら、そうしないように前もって引き継ぎして準備するもんちゃう?」
蔑む(さげすむ)ような、挑む(いどむ)ような視線で見上げていた。
対する、圭介は奥歯(おくば)を噛み締める。
──確かにそうだ。だけど、これじゃあんまりじゃないか……。
普段は温厚な圭介でも、流石に怒りが滲む。全身が震える。
──傍の翠玲は今、どんな表情をしているのだろうか?
怒りと情けなさで、とても表情を見ることはできない。
──本当にカッコ悪いな 俺。
「また伺わせていただきます!」
圭介は耐えられなくなって辞去する。
「あれ以上、引き継げるもんはないでぇ」
茂木の嘲笑混じり(ちょうしょうまじり)の言葉が追いかけてきたが、圭介は振り向かなかった。
実は社内で冷たいのは茂木だけではなかった。
市場部、市況部、法務部、編集委員……。明確にシャイン担当が割り振られていたわけではないが、シャインと関係を築いていた記者は多かった。
なのに、特ダネを抜かれるという大事件が起きた瞬間、自らに火の粉(ひのこ)が掛からない位置まで引いて、遠巻きに眺めるばかりだった。
「連絡先を知りませんでしょうか?」
圭介の支援要請のメールや電話にも反応は鈍い。
むしろ、それが一番辛かった。
「深堀君、大丈夫かい?」
茂木との交渉が決裂(けつれつ)し第七グループ席に戻った圭介を唯一優しく迎えてくれたのはキャップの米山だった。圭介が特ダネを抜かれた際も、何かと優しい言葉をかけて助けてくれた。
「何か手伝えることがあったら僕に言ってね」
またも、涙腺が刺激された。
「ありがとうございます。ちょっと取材に出ます」
これ以上、本社にいたくなくて退避。心を落ち着かせるためだけに、このカフェバーに退避してきた。
回想が終わり、視界が明瞭(めいりょう)になる。気づいた時、圭介は角谷の手をぼんやりと眺めていた。若い女性にしてはゴツゴツとした手に思えた。特に親指は爪が横に大きい特異な形をしていた。
──毎日、パンを作っているからのかな?
「角谷さんって、シャインの関係者知りませんよね? 例えば、輝川誠さんと知り合いではないですよね?」
──知っているはずがない。そんなの分かっている。
だが、藁(わら)にもすがる思いで、気づいたら尋ねていた。
「うーん、私はただのフランチャイズの雇われ店長やから……すんません」
角谷は困り顔で手刀(てがたな)を切った。
「ですよねー。変なこと聞いてごめんなさい」
そう言って、圭介は頭を下げる。
カランコロンカラン──。その時、ドアベルが新たな来客を告げる。
「じゃあ、今日もゆっくりしていってや!」
接客に向かう角谷の背中を見つめながらコーヒーを啜る(すする)。なんとなくさっきより苦く感じた。