日本词汇与文化

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我々日本人は言うまでもなく、日常生活における他愛もない会話から物事を深く思考するに至るまで日本語を使用している。当たり前であるということはそのことを理解しようとする機会を失わせ、そのことを疑うということからわれわれを遠ざけてしまうということだ。光のない場所に陰はない。日本という概念は外国という概念なしには誕生し得ないしまた存在し得ない。
毋庸置疑,在日常生活中从闲谈到深思,作为日本人,我们都是用日语来完成这个过程的。正是因为理所当然, 所以我们失去了想去理解其内在的机会,并且远离了质疑。没有光的地方就没有阴影。离开了外国这个概念,日本这个概念就不会诞生,也不可能存在。
では日本語は世界をどのように見る(分節化する)言語なのだろうか?一国語の語彙体系はその国民の文化の索引だといわれる。
那么,日语这种语言是如何看待这个世界(将其分节)的呢?每个国家其语言中的词汇体系被称为那个国家国民文化的索引。
词汇与文化——水

日本語の代表的な語彙として挙げられるのが「水」である。
日语中比较有代表性的词汇是“水”。
日本語の「水」は英語のwaterと違いその意味はごく狭い。すなわちそれは自然界の地上のものを表す点で特徴がある。それは涙や汗、雨の類を含まない。そして水は冷たいものをさし「湯」と対立する。ちなみに英語で「湯」はhot waterの二語で表され、水の一種であるという認識が窺われる。「湯」の属性にいう「ぬるい」もまた日本的語彙のひとつである。
日语中的“水”和英语中的“water”不同,含义较窄。也就是说,它在描述大自然地面上的水的时候,有一定的特征,即不包含“涙(眼泪)”、“汗(汗水)”、“雨(雨水)”。而且,“水”所指的对象是冷的,和“湯(开水)”对立。顺便提下,在英语中“湯”用“hot water”两个单词来表示,可见他们将其视为“水”的一种。而“湯”的属性之一“ぬるい(温)”也是很日本的一个词汇。
词汇与文化——水

とある大学の日本語主任教授曰く、アメリカの学生には、「濁る」という日本語の意味がなかなか分からせにくい、そうだ。muddyという単語はあるが、これは日本語で言うところの泥水ぐらいにあたり、not cleanのように二語でなければ表せないという。水を尊重する日本らしい表現である。
据某大学首席日语教授说,让美国学生理解“濁る(浑浊不清)”这词的日语含义似乎很难。虽然英语中有“muddy”这个单词,但是含义比较偏向于日语中的“泥水”,真要表达的话好像只能用像“not clean”这样的词组。“濁る”这种表达十分日本化,体现了日本对水的尊重。
水に関連してもうひとつ注意すべきは湿気に関した語彙である。ぬれる、湿る、しとる、潤う・・・などなど濡れ方に応じての語彙の分化は日本的といえよう。擬態語は元来日本に多くて有名だが、水に関するものだけでも、しっとり、じっとり、じめじめ、びしょびしょ、ぐしょぐしょ、びちょびちょ、じとじとなどいくらでもある。
还有另外一类和水有关的词汇需要关注下,那就是“湿気(潮气、湿气)”相关的,根据湿法不同分为“ぬれる”、“湿る”、“しとる”、“潤う”等等,可以说这种分法也比较日本化。众所周知,日语中拟态词向来较多,光是和水有关的说法就相当之多,比如“しっとり”、“じっとり”、“じめじめ”、“びしょびしょ”、“ぐしょぐしょ”、“びちょびちょ”、“じとじと”等等。
词汇与文化——人

人に関するものとして有名なのが人体に関する語彙の少なさである。一般に身体部位の違いに対して日本人は極めて大まかである。極端なのはhandもarmも日本語では「手」といい、footもlegも「足」という点である。外傷に関しても日本語では傷、怪我ぐらいのもので、英語ではwound、cut、bruise、scratch、などと使い分ける。
关于“人”这方面,比较突出的是和“人体”相关的词汇很少。一般来看,日本人对于身体部位的差异区分较笼统。极端点的例子就是不管是hand还是arm在日语中都称为“手”,foot和leg在日语中也是用一个“足”字来表达。另外,还有“外伤”相关的词汇,日语中也仅有“傷(伤、创伤)”“怪我(受伤)”之类的,英语则区分较细,比如wound、cut、bruise、scratch。
傷や病気に関して固有の名称の乏しい日本語に、死に関する名称の多いのは対照的である。これは命を重んじたというよりも、日本が有名な自殺国であることを物語る。ハラキリは日本語の中で最も早く世界中に広まった語として知られている。このハラキリの中にも、ツメバラ、オイバラなどの分類ができている。同意語の「情死」も同様だ。加えて、「戦死」は英語に訳すとto be killedと他動詞を受身形にすることで表現するが、これを日本語では「戦死する」という。この自動詞の形でいうところ、勇ましく悲しい。これら人体に関する語の少なさ、死に関する語の多さとその種類は、共同体を尊重し自己を一歩ひくという日本人の生き方を象徴するものとしてみることができる。
与伤病类固有名词匮乏相反,日语中关于“死”的说法较多。与其说这是源于对生命的重视,还不如说这是对自杀大国“日本”的最好诠释。“ハラキリ(切腹)”是最早为世界所知的日语,“ハラキリ”又分为“ツメバラ(被迫剖腹自杀)”“オイバラ(剖腹殉死)”。同义词“情死(殉情)”也是如此。另外,“戦死(阵亡)”这个词翻译成英语是to be killed,成了他动词被动态,而日语中的表达则是“戦死する”,因为是自动词形态,所以愈显英勇悲壮。日语中“人体”类词汇量少,“死亡”类词汇量大且种类多,这正代表了日本人这样的生存方式——尊重社会共同体,东经日语tokei.cn将个人放在第二位。
词汇与文化——感情

日本語では感情関係の語は実に豊富である。
日语中关于感情的词汇确实丰富。
気兼ねする、気が置けない、気まずい、気が引けるなど微妙な心理の動きを表す語彙が日本には多い。怒りだけを取り出してみても、起こる、憤慨する、腹が立つ、しゃくに障る、むしゃくしゃするなど、みな少しずつ意味が違う。字音語の中には、日本で古くできた日本製字音語というものがあるが、その中に心の動きを表すものが多いことは著しい傾向である。例えば、心配、懸念、無念、立腹、平気、本気、大丈夫、未練、存分、存外、案外、大儀、懸念、勘弁、会得、納得、承知、用心、辛抱、遠慮、覚悟、頓着などである。
像気兼ねする(顾虑)、気が置けない(无拘束)、気まずい(拘谨)、気が引ける(胆怯)这些词一样表达微妙心理活动的词语很多。只是和“怒り”相关的词汇就有起こる、憤慨する、腹が立つ、しゃくに障る、むしゃくしゃする等等,每个词都有细微差别。在音读汉字中有日本自古便形成的和式音读汉字,其中有个很明显的倾向便是表达内心活动的词语很多,比如心配、懸念、無念、立腹、平気、本気、大丈夫、未練、存分、存外、案外、大儀、懸念、勘弁、会得、納得、承知、用心、辛抱、遠慮、覚悟、頓着等等
日本人は心理状態を表す語の中で悲観的な面を見ることが多いというようなことを何かの本で読んだ気がする。曰く「幸せ」、「幸福」に関する語は、語彙数も使用頻度も少なく、反対の「苦労」、「不幸」の類が悲しい、哀れだ、さびしい、切ないなどとともに多く使われている、そうだ。
我记得曾经在哪本书里读到过这样的观点——日本人在表示心理状态时,喜欢着眼于悲观的一面。也就是说,和“幸福”相关的词汇量少且使用频率低,而和“艰苦”“不幸”相关的词使用频率较高,比如悲しい、哀れだ、さびしい、切ない等。
词汇与文化——羞耻感

R・ベネディクトは『菊と刀』の中で、日本文化を恥辱感の文化と呼んだ。日本人にとって「恥をかかぬように」というのが毎日の行動を規定する根本精神である、と。それを反映して、恥辱感に関連した語彙が多い。恥ずかしい、決まりが悪い、みっともない、照れくさい、間が悪い、格好がつかない、引っ込みがつかないなどなど。思えばわれわれは他民族以上に日常些細なことに照れたり、間が悪がったりして暮らしているのかもしれない。
鲁思·本尼迪克特在著书《菊与刀》中称日本文化为羞耻感文化,并指出对于日本人来说,每天的行为准则其根本精神就是“不要丢人”,而从这种文化延伸出来的羞耻感相关词汇便特别多。恥ずかしい(难为情)、決まりが悪い(羞愧难当)、みっともない(不像样)、照れくさい(害羞)、間が悪い(尴尬)、格好がつかない(不成体统)、引っ込みがつかない(下不了台)等等。仔细想想就会发现,我们和其他民族相比,似乎更容易为一些日常小事感到害羞或者惭愧。
次に日本人特有の道徳意識から日本語特有の語彙が生じた例を挙げる。R・ベネディクトは、日本人のその地位にふさわしい振る舞いをすることに対する強い執着を指摘した。女の子は女の子らしくしなくてはならない、横綱であるからには堂々としてなければならないなどという言い回しがそれである。
接下来,我想举例说明下从日本人特有的道德意识中延伸出来的日语特有词汇。鲁思·本尼迪克特指出,日本人特别在意自身的行为举止是否合乎身份。女人要有女人的样子,既然身为冠军大力士做人就要堂堂正正,像上面这两种表达便是最好的诠释。
以上通过分析逐渐能看清日本人的一些本质,虽然多少有些模糊。不一样的语言能创造出不一样的人。

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