庭院
关于作者:渡边武信,1938年生于横滨市,1962年毕业于东京大学工学部建筑学科,1969年完成同大学大学院博士课程,同年以个人工作室名义开设渡边武信设计室,五年后改组成法人组织。目前正从事以个人住宅为中心的设计活动。
在东大基础学院在学期间,曾与天退二郎一起创刊杂志《赤门诗人》。1964年,天、菅谷规矩雄、铃木志郎康等一起创刊了代表六十年代的杂志《凶区》,一直刊行到1971年。他活跃在诗论、美术批评、爵士乐批评、电影评论等多方面的领域。主要著作有《住宅的思想》、《住宅的演出》、渡边信武诗集》等。主要翻译有《惊奇的工匠们》、《没有建筑家的建筑》。
注释:
1. 山口瞳(1926-1995):小说家,东京出生,国学院大学毕业。以广告文案家著名,善于描写都市小市民和一般日本人的感情生活。1963年以《江分利满氏的优雅生活》获得第十八届直木奖。作品有《男性自身》、《血族》等。
2. 紫阳花:又称八仙花,绣球花,虎耳草科观赏用落叶灌木。初夏开球状的集散花序,只有四枚萼片,挂着许多发达的装饰花。花色有从青到紫红七种变化。
3. 紫式部:马鞭草科落叶灌木,秋天结出球形的果实,成熟后为紫色。据说这是从《源氏物语》的作者紫式部的名字模仿而来的。
4. 日本人的自然观:
日本人不认为自然和人类要对立起来,相反,他们将自然围拢起来,一边沐浴着它的恩惠,一边享受着生活,他们认为要与自然调和、共存。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
所谓庭院,是虽在室外,却对室内氛围产生很大影响的住宅设施。比如说坐在起居室等地方,不经意地将视线投向外面时,庭院里有色彩明快的宽阔草坪,还有枝叶茂密的松树丛,住在这样住宅里,心情就大不一样了吧。我住在父母庭院前面盖的房子里,虽然算不上自己的庭院,不过从窗户边的饭桌那里能望见父母的庭院。这个庭院不是按照“庭园”风格来修缮的,院内只有些杂树,地方很宽敞,不过反而能将四季应时的变化敏锐地反映出来,给人以满足的感觉。早春纤弱的梅花点缀在意想不到的角落里,光秃秃的树木冬日夕阳撕成千万条光芒。望着这些,在许多情况下,我原来焦躁不安的心情变得平和了。
瞭望庭院这种咋一看是毫不起眼的行为,却似乎意外地成了包括我在内的日本人在日常生活中的一个重要片段。比如说,在山口瞳无比悲哀的小说集《庭院中的沙场》中的同名短篇小说,就是这样的一个典型例子。该小说中有如下的描述:
“今年的梅雨感觉特别长,可能是因为三月和四月的雨特别多的缘故吧。我在忧郁的气氛中生活着,虽然是梅雨季节,却未必感到讨厌。这是因为茂密的树木的缘故吧。当我看到雨水落在绿叶茂密的树上时,心情十分舒畅。我喜欢绣球花,紫珠那淡红色的花朵开得也十分美丽。
我在能就近看见树木的起居室长椅子上坐了下来,看着雨滴落在庭院里,不禁感到心情沉重起来……”
作为作者化身的主人公,这样凝视着庭院时,神情驰骋,想起了最近死去的亲人们。也就是说,是因为心情越来越消沉的缘故,这也许就是与前面所说的“心情平和”相反的想法吧。实际上,平常压制下去的感情,在眺望庭院时被引诱了出来,根据一种放电现象,将压抑消解了,本质上是同“平和”相同的现象。这件事情,在思念一会儿死者之后,到浴池去洗头的主人翁,觉察到自己在葬礼上决不流泪,而在现在却流泪不止,通过这一结局,作者的心情就一清二楚了。
我想庭院对感情的巨大作用,也许就在于这样的(心理)治疗效果吧。为了达到这个目的,最低限度的必要条件是它们与住宅相连接,哪怕没有特别美丽的风景与极好的眺望条件也无妨。它们足以接纳我们的视线,并有围拢私密空间的自然片段存在。凝视庭院可以使人的心情平和下来,其原因在于,尽管是大自然活动的一些“片段”,但它们与人们日常生活中偶发的喜怒哀乐(无涉),而是以其独立的规律在活动。我们可以通过感受这些规律,使自己的感情在某种程度上可以相对地变得客观一些。也就是说,在这种场合下,我们的视线被接纳,也就等同于我们的感情被接纳。
当然,这样的功能在庭院外瞭望风景和公共绿地也并非做不到。但是,这就是微妙之处,属于私人领域的庭院和在外面的效果是不同的。这也许是因为我们托付感情一方的意识自然而然是不同的吧。
通过释放给外部对象的方法来最终治疗的情绪波动,即使不特别严重,但对当事人本人来说,一般都是一种想要隐藏在内心,不想让人知道的高度隐私。因此,为了允许自己释放这样的感情,人们有必要处于一种尽量不受别人干扰,在心理上感到安全和受到保护的环境中。因此,凝望自家庭院便是最为合适的了。不可思议的是,既是对庭院以外的草木寄托感情,其实也不会轻易被别人察觉。不过,且不说那些远离村落的单户独幢房子周围的大自然,就是对公园里的绿地或林荫树释放感情,也总觉得有些难为情。这好像就是人类,至少是都市人的一般心理。
我认为庭院就应该像杂木林那样,以不经意的态度为好。之所以这样考虑,是因为本人在受托修建庭院时,从不详细指定树木的种类,不过在这种粗略的做法中也有略显执着之处。在室内一览无余的良好位置,特别是作为日常生活中心的起居室、餐厅前,我配种了大型的落叶树。虽不问树的种类,但树木的形态要根据预定来交付,有可能的话,要先看了实物之后再作选定。我认为理想的树要具有粗壮的树干,有成人那样高,上面的树枝伸展要宽。如果受到最高预算的制约而不能如愿,则选那种虽然尺寸不够,但将来可以期待能长成大树的来种植。
我之所以对一棵树如此执着,一方面是为了在不同的季节要有形态变化的落叶树,如同前面所提到的,将庭院的精神治疗效果,不可欠缺的自然节奏,最具象征性地反映出来。夏天,落叶树用厚厚的树叶织成纳凉的树荫;冬天,它们将枯叶抖落,让阳光透过。更不用说,春天树木萌发新芽、秋天树叶色彩尽染,也都有其独特的风光。但是,与此并列的另一方面的重要理由是,大型落叶树对室内气候带来良好的影响。随着季节的变化,落叶树理所当然地会对面朝树木的房间根据自然规律很好地调整其对日照的需求。
我在自己的家里年复一年地实际感受着这种落叶树带来的恩惠。父母家的庭院前面,是以南北细长的格局修建的,而我家的南端几乎与地基的边界连接,在这一面没有庭院,很幸运相邻的是公园,那里的落叶树给我的房间带来调节阳光的效果。夏天郁郁葱葱的繁茂树叶将绿色映在室内,略显昏暗,冬天透过干枯的树枝,低矮的阳光直射到屋内深处,所以天晴时直到中午之后,屋内暖洋洋的连暖气也不需要。
如上所述,力求庭院能反映出四季的变化,并在“凝视”中发现庭院的最大意义,这似乎就是日本人所特有的庭院观。不管其具有怎样的私密性,也不管其如何被人工雕琢,日本人对庭院追求的是自然的缩影,其自然志向选择了以石喻山,以砂喻水之类的“枯山水”,包含了曲折的制作方法,在庭院制作中是一贯如此的。归根结底,这来源于不将自然作为征服的对象,而是要营造亲和的自然环境,这就是日本人的自然观的由来,当然,可以说我对杂木林的嗜好就是受了它的影响。
根据中央公论社《居住方式的展出》
庭
庭というものは住まいの外にありながら、室内の雰囲気に少ながらぬ影響を与える住まいの装置である。例えば居間などに座って何気なく外に視線を投げる時、そこにあるのが明るい芝生の広がりであるか、こんもりとした松の茂みであるかによって住まいの気分はかなり異なるであろう。僕は親の庭先に家を建てて住んでいるので自分の庭と言えるものを持たないのだが、それでも窓辺の食卓から父母の庭を望むことができる。この庭は“庭園”風に整えられてはいない雑木ばかりの広がりだが、それがかえって四季折々の移り変わりを鋭敏に映しだすことになって好ましく感じられ、春先にひょろりとした梅が思いもかけぬ片隅を小さく彩ったり、枯木立が冬の入り日をチヂに裂いたりするのを眺めやることで、ささくれ立った気分が和む思いをすることが多い。
庭を眺めるという一見目立たない行為は、僕を含む日本人の日常生活の流れの中で意外に重要な一種の節目になっているらしい。例えば山口瞳の哀切きわまりない私小説集『庭の砂場』中の同名の短編はその典型的な例の一つであろう。この小説は次のように書き出される。
「今年の梅雨は殊更に長く感じられた。三月にも四月にも雨が多かったせいだろう。私は陰鬱な気分で暮らしていた。梅雨時は必ずしも嫌いではなかった。それは繁った樹木のせいだ。青葉の繁った樹木に雨が降りかかるのを見るのは好い気持ちのものだった。紫陽花は好きだし、紫式部の薄いピンクの花が咲くのもいい。
私は樹木が間近に見える居間の長椅子に坐って庭に降る雨を見ていた。そうしていると気分が沈んでくる。......」
作者の分身である主人公は、こうして庭を眺めているうちに最近次々と亡くなった肉親たちに思いを馳せていく。つまり気分がますます沈みこんでいくわけで、これは先に述べた「気分が和む」のとは逆のように思えるかもしれないが、実は、普段は押し殺していた感情が庭の眺めに誘い出され、一種の放電を起こすことによって抑圧が解消されるのだから、本実的には「和む」のと同じ現像である。そのことは、ひとしきり死者を思った後に風呂場で頭を洗っている主人公が、葬式では決して泣かなかった自分が涙を流していることに気付く、という結末によっても明らかだ。
思いに庭の大きな効用の一つは、このような治癒効果にあるのではないだろうか。そのために最低限り必要なのは、住まいに接して、特に美しいものや素晴らしい眺めではなくとも、視線を受け止めてくれるに足る私的に囲われた自然の断片が存在することである。それを見て心が和むのは、自然の営みというものが、いかに断片であっても、人間の日常生活の偶発的な喜怒哀楽と独立したリズムを持って動いており、僕たちはそのリズムを感じ取ることで自分の感情なにがしか相対化できるからではないか。つまりこの場合、視線を受け止めてくるということは感情を受け止めてくるというのにぼば等しい。
勿論、こうした効用は庭の外に遠望する風景や公共緑地にもないことはない。
しかし、ここが微妙なところで、私的領域である庭とその外とではどうも効きめが違うようだ。それは多分、感情を託す側の意識が自ずから異なるからだろう。外の対象に投げかけることによって結果的に治癒する感情の波というものは、たいてい、取り立てて深刻なものとは限らぬにせよ、当の本人にとっては他人に知られずに秘めておきた、高度にプライベートな類のものである。だから、そうおした感情の放電を自分に許すためには、人間は他人の干渉をあたう限り免れた、心理的に安全に保護された境地にいる内にあるほうが有利なので、自宅を眺めている状態が一番適していることになる。不思議なもので、庭の外の草木に感情を託してもそうたやすく他人に悟られるわけはないのだが、人里離れた一軒家の周囲の大自然ならともかく、公園の緑や街路樹が相手では感情を放電するのがちょっと恥ずかしい、というのが、人間の、少しなくとも都会人の一般的心理であるたしい。
庭は雑木林風にさり気ないのがいい、と思っているせいで、僕は庭つくりを任された場合でも樹木の種類を細かく指定したりはしないのだが、そうおいう、大雑把さの中でやや強く執着するのは、室内から見渡せるほど良い位置、特に日常生活の中の中心になる居間、食堂の前に落葉樹の大木を配することである。これは樹種は問わぬにしても、その姿には注文を付け、可能ならば実物を見て選定する。僕の理想は太い幹が人の背丈ぐらいまでスッと伸び、そこから上に枝の広がりを持つ木である。もっとも予算の制約でこうした思いが叶うわず、サイズが不十分な物を将来の成長に期待して植えることもある。
この一本の木への執着は、一つには季節に応じて身づくろいを変える落葉樹が、前に記したような、庭の精神てき治癒効果に不可欠な自然のリズムを最も象徴的に映し出すからだ。落葉樹は夏に厚い茂みで涼しい木陰をつくり、冬には葉をふるい落とした陽光を透かさせる。言うまでもなく、春の木の芽どきや、秋に色づく葉には、その時々の眺めがある。しかしそれと並んで重要な物一つの理由は、大きな落葉樹の季節変化は当然、その樹に面する部屋の陽当りを自然の営みによって実に具合よく調整することにもなるのだ。
僕はこの落葉樹の恩恵を自分の家で年年実感しつづけている。両親の家の庭先に南北に細長く建っているわが家は南端がほとんど敷地境界に接し、その面に庭を持たないのだが、幸い隣地は公園で、その落葉樹の木立ちが陽当り調整効果をもたらしてくれる。夏はうっそうと茂る葉が室内を緑の反映でほの暗く満たし、冬は枯れ枝を透かしてくる低い陽射しが奥まで差し込んで、晴れた日の昼過ぎまでは暖房も要ならないほど暖かい。
ここまで記してきたように、にわに四季の反映を強く求め、それを「眺める」ことに庭の最大の意義を見出すのは、どうも日本人特有の庭園観であるようだ。いかに私的に囲われていようと、また人の手が加えられていようと、日本人が庭に求めるのは自然のミニチュアであり、その自然志向は石を山に、砂を水に見立てた枯山水のような屈折した操作を含む庭まで一貫している。これは結局、自然を克服すべき対象としてではまく、親和的な環境としてとらえる日本的自然観に由来するもので、むろん僕の雑木林好みもその影響下にあると言えるだろう。
(『住まい方の演出』中央公論社より。)